約800年にも渡り白川伯王家が、

分類1-4
質問約800年にも渡り白川伯王家が、神と天皇の間にたち天皇を補佐されて来たのに、何故その職を解かれたのか、少し話を聞いた事がありますが、その辺も詳しくお聞きしたいと思いました。
回答覇権主義時代という二項対立観の器の中においての出来事であり、その時代の価値観ゆえの一経緯であったと推測されます。そして、その覇権主義による複雑な政治的主導は国外にもあるのかもしれませんが、いわゆる一神教的な支配世界の限界期に差し掛かっていたがゆえの、二項対立を超える必然的なターニングポイントでもあったのかもしれません。
回答講師斉藤亘弘

数年前、何の知識もなく松本を散歩して

分類1-4
質問数年前、何の知識もなく松本を散歩していて四柱神社にたどり着き、妙にウキウキした記憶があります。白川神道と関係があるとのことですが、その関係をもう少し教えて頂きたいと思います。
回答四柱神社に関しては、白川通信で取り上げた記事がありますので、ご紹介させて頂きますね。 白川通信第4号(平成25年4月) 白川探訪記(第4回連載)~明治初期の動乱と四柱神社~ 今回は長野県松本市に鎮座する四柱神社(よはしらじんじゃ)を訪れました。この神社は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神を祀る神社であり、建立されたのは明治初期であります。 幕末から明治初期の動乱期、国の型を構築する為、まず始めに祭政一致の体制を確立することが試みられます。具体的には、宮中で天之御中主神を祀るように、天之御中主神を中心に据えた神祇祭祀を軸としての体系化が図られました。明治ニ年には神祇伯である白川資訓を長官に置く宣教使の官が設置されました。続く明治三年、日本を祭政一致の国家体制とする「大教宣布の詔」が出されます。しかし、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、さらに欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なり、神道国教化の動きは混迷を極めます。明治六年には大教宣布の路線の再建、強化を目指し、教部省に大教院、中教院、小教院の制度が設けられました。しかしながら、様々な問題により明治十年に教部省は廃止され、機能は内務省社寺局へ移されることになりました。その後、欧米からの一神教的自然神学の影響を受けて、伊勢神宮の天照大御神を神々の中心に据える神社神道の体制を構築し、それがそのまま国家神道となり明治、大正、昭和と続いていきます。 そのような時代背景の中、明治七年、筑摩県(現在の長野県中信地方・南信地方・岐阜県飛騨)の中教院として設立されたのが、四柱神社の前身です。当時の院内には天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神の神様が祀られていました。わずか数年で中教院の制度は廃止されますが、その後の明治十二年、新たに一社を興し、四柱神社として現在の松本の地に厳かに鎮斎されました。 一方、白川家に目を向けてみると、幕末、白川家学頭の高濱清七郎は孝明天皇の命により宮中を離れていました。明治初期の動乱の中、明治天皇は高濱清七郎を宮中に戻すよう命じました。しかし、時の政治の実力者である三条実美は学頭を呼ぶどころか、死んだことにしたわけです。その結果、天之御中主神を中心に据えた神祇祭祀の体系化が実現しなかったわけです。明治天皇が望んでいたように祭祀を白川家に任せていれば、現在とはもう少し違った体制になっていたのではないでしょうか。そういった意味において、この四柱神社は当初の明治天皇の理想を残す数少ない神社の一つです。そのあたりの経緯を四柱神社の神主さんに尋ねてみましたが、はっきりとした回答を得ることは出来ませんでした。 幕末から明治初期の出来事を総括し、今また新たな国創りが白川学館に期待されているのではないでしょうか。
回答講師櫻井慎也

動画では話されていませんでしたが、先生は吉田

分類1-4
質問動画では話されていませんでしたが、先生は吉田神道をどう思いますか?教科書を読むと、吉田家は自己流に権力あるものと親しくなり勢力を強めていったワンマン経営者、良くも悪くも押しが強い。一方白川は由緒正しい家柄。吉田家残念だなぁと吉田に嫁いだ私は思ってしまいました。
回答吉田家と白川家の二つの家柄で、祭祀を司ってきたという歴史的事実は確かなことです。どちらの家においても、独自の伝承形態や伝承方法によって行われておりますので、その中身については検証や検討する必要があるかもしれませんね。
回答講師櫻井慎也

白川家が800年の長きにわたり他者と変わること

分類1-4
質問白川家が800年の長きにわたり他者と変わることなく神祇伯を執り行うことができた最大の理由を挙げるとすると、どういったことかというお考えがあればお聞かせください。
回答所謂、二項対立観を前提とする覇権主義による時代の存続期間は、凡そ500年が限界であると言われています。その意味では各時代を超えて、白川家が宮中祭祀に関わりながら800年にわたり神祇伯職を務めてきたということは、二項対立観を生み出す時空間的次元を超えた本質を、白川のおみちが普遍的に備えているからだと考えます。
回答講師斉藤亘弘

入門講義集も併せて拝読させていただきました

分類1-4
質問入門講義集も併せて拝読させていただきました。特に吉田家の台頭の段では、当時の白川家の人々の無念を、先生が熱く代筆していただいたものと勝手に解釈しております(笑)様々な変化のある歴史の中で白川家が800年宮中祭祀を司ることができた、800年続けられた最大の要因を挙げるとすれば先生はどのようにお考えでしょうか?
回答公に徹する態度ではないでしょうか。
回答講師斉藤亘弘

学頭について、教えを伝える学校長みたいな人

分類1-4
質問学頭について、教えを伝える学校長みたいな人だということでしたが「白川家学館」は実際に設立されることはなかったとのことでした。白川家以外の人たちが白川家の教えを学んだり教えたりするようになったという部分で、学頭やその他の白川の教えを伝える先生みたいな人たちはどこで活動していたのでしょうか。白川家の私邸で私塾みたいな感じでやっていたのでしょうか?寺子屋みたいな感じで出向いて行ってセミナーをしていたのでしょうか?
回答森顕胤学頭の足跡に関しては、白川通信第1号(平成25年1月)に掲載されております。以下の記事が参考になるかもしれません。 白川探訪記 第1号(平成25年1月) 第一回連載 ~富士山麓に、白川学館森顕胤学頭(1715年頃~1785年)の足跡を訪ねる。~ 江戸時代、富士登山者で賑わった上吉田には御師の営む宿坊が、100軒近くありました。御師というのは富士山参詣者の宿泊の世話をしたり、登山の安全や祈祷の指導をする方々のことであります。その御師の信仰は、廃仏毀釈の影響もあり、今でこそ神道ですが、江戸時代前期までは、袈裟をかけて数珠を持ち読経を行うというように、仏教色の強いものでした。それが、江戸時代中期になると、富士山の本尊が浅間大菩薩から木花開耶姫命に変わり、神道色が強くなり始め御師も神道を志すようになります。 当時、神道の教えは、吉田家と白川家の二つの家筋に分かれていましたが、幕府の公認を受けていたのが吉田家であったため、御師も当初は吉田家に属します。他方で、白川家は、その由来を平安時代にまで遡る由緒ある家筋でしたが、室町時代になると、吉田家が権勢を強めたため、長い雌伏の時を過ごします。しかし、1759年(宝暦六年)、白川家が富士北麓への教勢拡大を企図したことにより、その様相は一変し、吉田家との間で御師に対するどちらの神道裁許状(免許状)が有効であるかという権限争いにまで至ります。そして、翌年には、吉田と河口の両集落において、吉田家の御師が、白川家の御師をその神道裁許状は無効であると訴えて勝訴したため、白川家は富士北麓からの撤退を迫られるという窮地に立たされます。 この正念場に白川家の理論面を支える学頭を拝命した森顕胤は、その巻返しに成功し、吉田家との共存にまで事態を収拾します。 その森顕胤が、吉田を初めて訪れたのは1775年(安永四年)であります。翌年の1776年(安永五年)まで教義の授業を行い、多くの門人に慕われた森顕胤は、吉田をまるで故郷のように感じていたようです。その十年後の1784年(天明四年)にもう一度吉田を訪れますが、御師小猿屋で病に伏し死去いたします。 上吉田の門人たちは、その恩に報いるため三十三回忌に際して、墓碑建設を企画します。西念寺住職の春登上人が墓銘を撰し、1817年(文化十四年)白川家門人のみならず、吉田家門人も列席する中で、西念寺境内において、三十三回忌墓前祭法要が執り行われました。なお、河口にも墓碑が建立されており、吉田と河口湖の二つの墓碑は、御師たちに篤く慕われていた森顕胤の人徳を今に伝えています。
回答講師櫻井慎也

大陸で発生した文化が極東の日本に伝わって

分類1-4
質問大陸で発生した文化が極東の日本に伝わっていく流れのなかで、洗練されたものが日本に蓄積されていったとの解説がありました。従って、白川の教えと共通するものが世界各国に見られるのは不思議ではないとのことでしたが、例えばどの国のどういうところが共通していますか?
回答国内においては伊勢、さらには出雲で行なわれている祭祀が、白川の祭祀の中に含まれております。伊勢や出雲の祭祀の源流を探っていくことで、世界との接点が見えてくるでしょう。様々な説があるでしょうが。 また、アイヌや琉球で行なわれてきた祭祀は、縄文期からのものもあります。その中身においても白川の祭祀と共通する部分が多々あります。 各地、各国の祭祀と白川の祭祀における共通点を理解して、体得していくことは、ご修行の中で掴んでいく中身でもあります。 ちなみに、金大偉さんの映画「ロスト・マンチュリア・サマン」で描かれている満州シャーマンが行う祭祀の中にも共通点があります。
回答講師櫻井慎也

神託の受け取り方の部分で、審神者に

分類1-4
質問神託の受け取り方の部分で、審神者についての記述がありますが、「神託を吟味する」というのはどのようになされるのでしょうか。それは客観的に何らかのサインを見て取るものなのか、審神者が神代の動きを見て感じ取る主観的なものなのか。言葉で説明できるものなのかはわからないですが、教えていただけるとありがたいです。
回答審神者による神託の吟味についてですが、客観的視点から神の働きを階層的に判断します。天津神の働きか、国津神の働きかを判断しその真意を示します。さらには、指導意志霊や先祖霊、動物霊等のいわゆる憑依霊によって神代が憑依されていないか支配されていないかを判断します。つまり、神代への霊的な存在の働きかけを客観的に吟味します。
回答講師斉藤亘弘