昔は‘神人合一’で最重要儀式である

分類1-3
質問昔は‘神人合一’で最重要儀式である大嘗祭とよばれていた名称が、現在は「新嘗祭」に名を変えたのは何故でしょうか?
回答諸説はあるとは思いますが、日本が国家として律令を基本法とする法体系及びに政治制度を本格的に導入することに沿って、大嘗祭を新嘗祭と区別したのではないかと思います。いわゆる践祚大嘗祭と新嘗祭も祭祀制度に従い分けたのだと思います。一方で、このような祭祀制度上の名称区分の変遷はあったとしても、大嘗祭の秘儀にあたる神事は古代から伝わる神人合一の重要な神事として存続していたと思います。
回答講師斉藤亘弘

江戸時代まで白川神道に通じて

分類1-3
質問江戸時代まで白川神道に通じていた歴代天皇も、白川においての手順(三種祓→身禊祓→大祓→三種祓)で祝詞やお祓いの作法をされていたのでしょうか?ご返答をお願いします。
回答宮中祭祀において歴代天皇は、古代からの祭政原理による「祓われる」立場でありました。つまり、初めからカミ(神)でもありました。口伝においては、審神者、はふりめと呼ばれる人たちがお取り立てとしてのお世話をして、真ん中に座った天皇に向って八方から祓詞を奏上する形で執り行われたようです。
回答講師斉藤亘弘

神託の受け取り方で巫女的存在

分類1-3
質問神託の受け取り方で巫女的存在に神が下りて神託を述べるという部分で少し疑問が生じました。麻薬的食品などによる酩酊状態(変性意識状態?)で神の言葉を伝える、との事ですが、巷に溢れる新興宗教の教祖なども同様な手法を用いてると感じます。古来神道ではその神託の信ぴょう性の判断を審神者がしているという事ですがその審神者自身の信ぴょう性はどの様に担保されていたのでしょう?一人の審神者が判断していたのでしょうか?
回答白川のおみちにおいては、ご修行を行う者はシャーマニズム的な脱魂をすることなく通常の意識を保ったままで神と一体になり、さらに審神者はその状態を客観的な立場で判断する側となります。つまり、審神者とは客観的認知判断ができる立場のことです。古来からの宮中祭祀においては、審神者の立場はその素質となる見極め基準と、複数人による客観的他者の立場として神代の精神状態を正確に判断する基準方法が継承されていたのだと思います。いわゆる十種神宝とは、自己と他者を分離して自身を客観視する方法のことでもあります。ちなみに変性意識という概念には広義の解釈があり、いわゆるトランス状態、洗脳状態もそのカテゴリーの一つとなります。よって変性意識という言葉の概念には、解釈としての明確な使い分けが必要となります。
回答講師斉藤亘弘

現在のいわゆる各地に存在する

分類1-3
質問現在のいわゆる各地に存在する神社の存在と、皇室祭祀の関係がいまいちわかりません。また、吉田家と白川家の関係が、テキストを一読するだけだと敵対関係にあったような印象も受けるのですが(敵対というのは言い過ぎかもしれませんが、何かしら相容れないもののように読めてしまうのですが)この両家の関係はどのようなものなのでしょうか。P47下段、なお、吉田神道で知られる吉田家は~独自に神事を行っている、という点、「私的に」「独自に」というところなど、なんとなく本来の仕事以外のことに手を出している、という印象を受けます。
回答ご返答が遅くなり申し訳ございませんでした。現在各地に鎮座している多くの神社・お宮は神社本庁に加盟しており、それぞれの祭祀運営を地域の住民と共に行う形を取っています。 その祭祀内容は、神職養成専門の大学機関における学説を前提として(テキスト祭祀学参照)祭祀が執り行われています(各地域の神社に伝承される祭祀も含む)。 一方、現在の皇室祭祀は、昭和の戦後からは天皇家の私的行事として執り行われていることが実情となります。 宮中祭祀においての白川家と吉田家の歴史的な関係についてですが、宮中祭祀を受け持つ立場として以前から存在してきた白川家による神祇官職に、いわゆる政治的な手段をもって参入してきた歴史的経緯があるとして吉田家は解釈されるところがあるようです。この点については、元皇學館大学研究開発推進センター助教の山口剛氏が、歴史的事実としての資料検証及びに研究をされた学者として発表しています。
回答講師斉藤亘弘

鎮魂祭における3つの儀は呪術的側面のあるもの

分類1-3
質問鎮魂祭における3つの儀は呪術的側面のあるもので神人合一とは階層的に異なるとの内容でしたが、3つの儀を行うことで鎮魂されるとの「確信」に近い概念を当時の人々が持っていたがゆえに、それを行うことで天皇自身も、「自分が鎮魂された」と意図できる、という言わば神人合一に向けての階段としての役割であって3つの儀≠鎮魂3つの儀≠神人合一イコールではない、との理解でよろしいでしょうか?
回答寧ろ、3つの儀式は鎮魂でもあり、神人合一でもあるとも言えます。なぜなら、儀式においては、当時の時代環境ゆえの方便的な手段として、その時代に見合った形として呪術的な形式を取り入れたことにはなったかもしれませんが、儀式の真義たるその本質は時空間の次元を超えて貫かれていると考えるからです。
回答講師斉藤亘弘

ご講義いただき有難うございました

分類1-3
質問ご講義いただき有難うございました。明治維新以降、白川伯王家不在で鎮魂祭が執り行われているとのことですが、白川伯王家の秘儀は伝授されているのでしょうか。宜しくお願い致します。
回答現在の宮中祭祀としての鎮魂祭においては、白川伯王家の秘儀は伝わっていないことになります。
回答講師斉藤亘弘

六種鎮魂法においては、鎮魂について

分類1-3
質問六種鎮魂法においては、鎮魂について修めるものと思われますが、これは鎮魂祭において行なわれるような魂の安定化・強化というような効果を生じるようなものなのでしょうか(これから学んでいくことであるとは理解していますが、どのようなものであるのかという外観がわかればと思いまして)。
回答第六種神拝作法の内容であるその理論と境地は、第七種神拝作法を伝授されたのちに、正式に口伝伝授として受けることになりますので、ご理解ご了承のほどよろしくお願い致します。
回答講師斉藤亘弘

①近隣の、一宮市にあります一之

分類1-3
質問①近隣の、一宮市にあります一之宮の真清田神社 には、現在、「天火明命(饒速日命と同一神?)」がお祀りされています。以前、熱田神宮の文化殿に置いてあった本をなんとなく手に取り、たまたま開いた頁に、真清田神社の御祭神は、以前は、「国常立尊」と書かれていました。御祭神が変わるというのは、どのような理由が考えられますでしょうか? ②上記を受けて「饒速日命」と「国常立尊」の両神に共通する関係が気になりますが、宜しければ、簡単に関係性を教えてください。
回答①歴史上、神社の祭神と云うものは、何度も替えられていることが珍しく ありません。 まず、最初は大体西暦でいう500年代、大和朝廷が全国を統一するにあたり、 ニギハヤヒの系譜をはじめとした、旧来から大和地方に祀られていた 神、スサノオをはじめとした出雲の神を、 意図的に別の神々の名に替えます。 一例として 奈良桜井市の大神(おおみわ)神社は、今「オオアナムチ」 という大国主命の別名の神が祀られていますが、 元はニギハヤヒだったという説があります。 また、アラハバキという東北から関東北部にあった 古来からの神も、多くが消され、道教に由来する星の神など よくわからない別の祭神にされたり、大きな神社の末社に 降格されたりしました。 理由は、すべて、皇室の祖先神である「天津神」の信仰の広がりを重視 するためでした。 次に中世から江戸前期。 元々教えがなかった神道が、仏教の影響で「教説」というものを立て始める ようになったころ、具体的にいうと1400年代頃以降から、1600年代の終わり頃までの 間に、吉田兼倶(よしだかねとも)他代々の吉田家当主を中心とした神道思想家たちが、 特に地方の小さな神社の祭神名をいろいろと変えました。 なぜなら、地方の小さな神社では、その神社の権威を高めたいがために、 記紀に出て来る、名前のよく知れた祭神名を欲したからです。 また、明治時代にも祭神名の変更がよく発生しました。 国費の削減のため、全国の神社がかなり統合された際に、 混乱のため、消えてしまった祭神名があったり、江戸時代と同じように 社格を高いものにするため、著名な祭神に替えることもあった のです。 以上、人間側の都合で祭神名は幾度もかえられた例が あることは知っておいてください。 ②ニギハヤヒとはご存知のように、神武天皇が大和にやってくる以前に 今の大和地方を納めていた実在の人物が神とされた存在です。 ①で前述したように、幾度も、この神の影響力を 極度に小さなものとするための意図的な祭神名の変更がなされました。 このことは、ご存知とは思いますが、名著 『消された覇王 伝承が語るスサノオとニギハヤヒ』小椋一葉著 に、わかりやすくのべられています。 國常立命は、日本書紀の冒頭にも出て来る、国土の初発の 神、国土の永遠不変を示す神として著名な神ですが、 ニギハヤヒ神話を多く載せている物部氏系の神話 『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)にも、 最初のほうに登場します。 つまり、大和朝廷も、それ以前からあった豪族も 共に信仰の対象としていたといえます。 にもかかわらず、国常立尊も、熱田のように、祭神としては よく別の神に替えられています。 この理由についてはわかりませんが、①のような 人間側の都合が様々に入っていると考えられます。
回答講師斉藤亘弘