「鏡」で組み立て直すという事で

分類1-11
質問「鏡」で組み立て直すという事ですが、神道的にはどのようになることが正しい道という事でしょうか?
回答講義で説明した「イソノミヤ」が理想だと思われます。「イソノミヤ」は、「五十音宮」であり、鏡は五十音の象徴です。では、五十音とは何でしょうか。普段私たちが話している言語は日本語であり、五十音です。話し言葉、書き言葉という表現がありますが、それらは次元の階層を降りた結果としての五十音です。では、耳に聞こえる、あるいは目で見える文字になる前に、五十音はどのような形になっているでしょうか。そうです。形はありません。霊(たま)という振動ならあります。振動の前には何があるでしょうか。何もないでしょうか。いいえ。意志の存在があります。もはや振動ともいえない状態です。言霊学ではこれを神と呼びます。その子供や孫が文字になったり話し言葉になったりしますが、神の子はやはり神です。普段会話をしたり、何かを書いている時は、全く無自覚に言葉という神を使っています。神というよりは、道具といった感覚です。道具という感覚のため、ぞんざいに扱う傾向があります。しかし、それが神だと知ったら、どうでしょうか。もちろん、口にしないまでも、心の中であれこれ考える時にも言葉は使います。そうした心の声にも神が使われていると知ったらどうでしょうか。そうですね。いい加減な使い方はできないはずです。しかし、神を使う自分という言い方はピンと来ないかもしれません。人間である自分が神を使うことはありえない、と。神を扱えるのは神だけです。とすると、自分は実は神ではないでしょうか。言霊五十神、言霊百神といいますが、五十神を認めているのは誰でしょうか、五十神を使って会話をしているのは誰でしょうか。自分以外、人間以外ありえないのではないでしょうか。結論として、五十音は神である→人間は五十音を使える→人間は神である、ということになります。なぜなら、次元の階層上、神でないと神を扱えないからです。少し強引でしょうか。ここで、最初の「五十音は神である」に引っかかると、次に進むことができません。しかし、自分に把握できるにせよ、できないにせよ、古事記にもあるように歴史的に「言葉は神」だといわれているわけです。聖書も言っています。「初めに言葉ありき、 言葉は神と共にありき、 言葉は神であった」と。仮に言霊の体感がないとしても、これだけ言っているわけですから、頭の知識として入れておいてもよろしいかと思います。ここでご質問に戻ります。鏡のことを踏まえ正しい道は何か、ということですね。それは、「言葉は神であり、自分は神である」という自覚を持って生きることではないかと思います。その自覚があれば、人は外部の環境に影響されず、真に主体性を持って生きることができます。これが、無支配という意味を持つ「イソノミヤ」のあり方なのです。イソノミヤ=五十音=鏡=神=自分ということです。
回答講師小野寺潤