国策ということばの、国、とは、

分類1-12
質問国策ということばの、国、とは、日本国、というような、いわゆる現在の国民国家、あるいは倭国というようなかたまりを超えた概念として、お話しされているととらえていいのですよね?様々な軸、で公、について捉え、歴史経験の共有、共通事項から、なんとか共に補完し合いながら、共存共栄していく道を見出していこうとする姿勢は、国という個がありつつも、全体(この場合地球なのでしょうか?)を見た視点からなのかな、と思うのですが、具体的には、(実際行動の単位としては)、白川において、高等国策が論じられている単位は、日本国、の国策なのでしょうか?日本語を話す人たちのグループ?の策?国ってなんなのだろう?とあらためて思ってしまいました。
回答語としての「高等国策」は、「国策」の語感が重苦しいせいもあり、何か有識者たちの政策諮問機関絡みの如き印象を誘いかねず、心配です。むしろ「国家百年の大計」などの「大計」に切り替えようかとも考えています。 1、ともあれ高等国概念下の「国」という単位は仰せの通り、単純に近・現代の国民国家や原始古代倭国を想定したものではありません。しかし、諸々の含みやニュアンスはあります。 ①我々が国民国家に生存する事実は動かせません。だが、同時に、この体制が限界に来ている状況であります。しかも、次の体制が描けていない訳です。厳しい矛盾と亀裂がたちこめています。EUは確かに脱国民国家路線のモデルですが、日本を含む東アジアに直ちに導入できるものでもありません。新たな「帝国」の提唱もありますが(地域内ブロック論のようですが)よくイメージがつかめません。 ②倭国段階にまで論を拡げるのは、この列島の国原理の初源や節目(そこで何かが新段階になったり逆に衰退したり伏流下したり)などを見極めることで、何が埋もれた可能性などを探りたいからです。この場合の「国」は種族、氏族などの共同体的ありようの如きを感じもしますが。 2、さて、「国と全体」というご質問ですがおっしゃるとおり地球を意識していますよ。特に3.11原発大事故を潜り、かつ今後もその類が大厄災に日本が見舞われた場合、そのダメージが地球単位のスケールになります。ゆえに、そういうスケール単位から割り出された課題、(危機管理、ダメージ・コントロール、ないし文明選択)を負う日本という次元の認識が重要になるはずです。 3、ご存知の通り律冷期の神祗官体制は陰陽寮や鎮護国家仏教体制と並び、かつ統合されて、まさに高等国策体制機関であったと申せましょう。そして平安期に神祇官は白川家の家職になります。その形が幕末まで続きます。更に近代でギリシャにまで細流化します。しかし、現代にいわば日本の(更にはアジア・ユーラシア)文明的要請を受けて再興されたと考えるべきでしょう。民間レベルの小規模ではあれ、しかし、その意義は遠く7世紀の護国体制においてあった如き「公」に匹敵すると存じます。 4、また、「日本語と国」について少し言及がありました。世界で日本語を学ぶ「日本語人」の存在は、今後極めて重要と存じます。日本語人における、ある種、哲学的な「国」(精神的・霊性的共同体)はあり得るかもしれません。 5、最後に付言します。昨今ユーラシア大陸が激動しかつそれが、加速している感もあります。諸原因がありましょうが、ある段階で三大一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム)の大衝突(戦争)が起きた場合(これはイスラエルでの動きなどが引き金になりそうですが)、地球規模の大厄災が生じる可能性があります。それらの制御、調停などの役も日本が担うべきと存じます。 日、中、印などの非一神教体制の諸国の大きな連携の中で、そうした世界破局を防ぐ調停の活動も必要でしょう。かつイスラム圏でもオスマン帝国運営経験を有するトルコの重要性への評価もある種の鍵となりましょう。
回答講師能澤 壽彦