学頭について、教えを伝える学校長みたいな人

分類1-4
質問学頭について、教えを伝える学校長みたいな人だということでしたが「白川家学館」は実際に設立されることはなかったとのことでした。白川家以外の人たちが白川家の教えを学んだり教えたりするようになったという部分で、学頭やその他の白川の教えを伝える先生みたいな人たちはどこで活動していたのでしょうか。白川家の私邸で私塾みたいな感じでやっていたのでしょうか?寺子屋みたいな感じで出向いて行ってセミナーをしていたのでしょうか?
回答森顕胤学頭の足跡に関しては、白川通信第1号(平成25年1月)に掲載されております。以下の記事が参考になるかもしれません。 白川探訪記 第1号(平成25年1月) 第一回連載 ~富士山麓に、白川学館森顕胤学頭(1715年頃~1785年)の足跡を訪ねる。~ 江戸時代、富士登山者で賑わった上吉田には御師の営む宿坊が、100軒近くありました。御師というのは富士山参詣者の宿泊の世話をしたり、登山の安全や祈祷の指導をする方々のことであります。その御師の信仰は、廃仏毀釈の影響もあり、今でこそ神道ですが、江戸時代前期までは、袈裟をかけて数珠を持ち読経を行うというように、仏教色の強いものでした。それが、江戸時代中期になると、富士山の本尊が浅間大菩薩から木花開耶姫命に変わり、神道色が強くなり始め御師も神道を志すようになります。 当時、神道の教えは、吉田家と白川家の二つの家筋に分かれていましたが、幕府の公認を受けていたのが吉田家であったため、御師も当初は吉田家に属します。他方で、白川家は、その由来を平安時代にまで遡る由緒ある家筋でしたが、室町時代になると、吉田家が権勢を強めたため、長い雌伏の時を過ごします。しかし、1759年(宝暦六年)、白川家が富士北麓への教勢拡大を企図したことにより、その様相は一変し、吉田家との間で御師に対するどちらの神道裁許状(免許状)が有効であるかという権限争いにまで至ります。そして、翌年には、吉田と河口の両集落において、吉田家の御師が、白川家の御師をその神道裁許状は無効であると訴えて勝訴したため、白川家は富士北麓からの撤退を迫られるという窮地に立たされます。 この正念場に白川家の理論面を支える学頭を拝命した森顕胤は、その巻返しに成功し、吉田家との共存にまで事態を収拾します。 その森顕胤が、吉田を初めて訪れたのは1775年(安永四年)であります。翌年の1776年(安永五年)まで教義の授業を行い、多くの門人に慕われた森顕胤は、吉田をまるで故郷のように感じていたようです。その十年後の1784年(天明四年)にもう一度吉田を訪れますが、御師小猿屋で病に伏し死去いたします。 上吉田の門人たちは、その恩に報いるため三十三回忌に際して、墓碑建設を企画します。西念寺住職の春登上人が墓銘を撰し、1817年(文化十四年)白川家門人のみならず、吉田家門人も列席する中で、西念寺境内において、三十三回忌墓前祭法要が執り行われました。なお、河口にも墓碑が建立されており、吉田と河口湖の二つの墓碑は、御師たちに篤く慕われていた森顕胤の人徳を今に伝えています。
回答講師櫻井慎也