第2回の講義をありがとうございました

分類1-2
質問第2回の講義をありがとうございました。神道への関心が一層喚起されました。 白川神道については本講義で学んでいくこととして、一般の神道や神道神学について学ぶのに何か良い入門書はあるでしょうか? また古事記は途中ましか読んだことがないのですが、やはり読んでおいた方がよいでしょうか?素人ですので、最初は面白かったのですが、だんだんととっつきにくい感じがしたのは否めませんでした。古事記や日本書紀などの良い参考書があれば教えていただけると幸いです。
回答既存の大学機関系の神道学や神道神学を理解する上での取り組みやすい書籍としては、阿蘇谷正彦氏の『神道とはなにか』、『現代社会と神道 神道神学試論』(いずれも「ぺりかん社」)等が参考書籍となると思います。古事記は上つ巻を読んでみることも良いかと思います。古事記では、本居宣長の古事記伝がよろしいかと思います。古事記伝は、32種あるといわれる写本を統合して、上代特殊仮名遣いによる訓読みによって読みやすくしたものとなっています。その他の古事記は、数種のみの写本を原本とする偏りがあるようです。古事記伝を原本とした古事記の書籍としては、現在では自費出版系の『朗読のための古訓古事記(岸本弘著)』となります。
回答講師斉藤亘弘

火打の作法について教えていただ

分類2-1
質問火打の作法について教えていただけましたら幸いです。まず自分を清めた後、祝詞を上げる場を清める際、火打石を一旦置いて、拍手一礼したあとに、また一礼拍手して石を手にとってその場に入って、とするのか、この部分は飛ばしてそのまま手にもったまま場にはいるのか、教えていただけますか、よろしくお願いいたします。
回答丁寧にするのであれば、自身の祓いと結界の間で火打石を一旦置いて、再度一礼をして拍手をして手に取って頂ければと思います。 ただ我々もそうですが、自身を清める為に手に取った火打石を一旦置くことなくそのまま持ったまま、場の結界を行っております。
回答講師櫻井慎也

江戸時代まで白川神道に通じて

分類1-3
質問江戸時代まで白川神道に通じていた歴代天皇も、白川においての手順(三種祓→身禊祓→大祓→三種祓)で祝詞やお祓いの作法をされていたのでしょうか?ご返答をお願いします。
回答宮中祭祀において歴代天皇は、古代からの祭政原理による「祓われる」立場でありました。つまり、初めからカミ(神)でもありました。口伝においては、審神者、はふりめと呼ばれる人たちがお取り立てとしてのお世話をして、真ん中に座った天皇に向って八方から祓詞を奏上する形で執り行われたようです。
回答講師斉藤亘弘

「身禊祓」の文中における底→

分類1-5
質問「身禊祓」の文中における底→中→上にかけての階級や階層にそって神様の名を唱えるわけでありますが、例えば上津玉積の神、上筒男の命の場合、‘神’より‘命’の方が上の階層(位)になるのでしょうか?ご説明をお願いします。
回答神と命で分けるとすれば、上部に掲載しました図のような形になります。 上津玉積神の詞を前面から発し、背面に回って上筒男命となるようなイメージです。 続いて、中・・・神、命、そして底・・・神、命となります。 神と命は前後の関係ということになりますね。
回答講師櫻井慎也

神託の受け取り方で巫女的存在

分類1-3
質問神託の受け取り方で巫女的存在に神が下りて神託を述べるという部分で少し疑問が生じました。麻薬的食品などによる酩酊状態(変性意識状態?)で神の言葉を伝える、との事ですが、巷に溢れる新興宗教の教祖なども同様な手法を用いてると感じます。古来神道ではその神託の信ぴょう性の判断を審神者がしているという事ですがその審神者自身の信ぴょう性はどの様に担保されていたのでしょう?一人の審神者が判断していたのでしょうか?
回答白川のおみちにおいては、ご修行を行う者はシャーマニズム的な脱魂をすることなく通常の意識を保ったままで神と一体になり、さらに審神者はその状態を客観的な立場で判断する側となります。つまり、審神者とは客観的認知判断ができる立場のことです。古来からの宮中祭祀においては、審神者の立場はその素質となる見極め基準と、複数人による客観的他者の立場として神代の精神状態を正確に判断する基準方法が継承されていたのだと思います。いわゆる十種神宝とは、自己と他者を分離して自身を客観視する方法のことでもあります。ちなみに変性意識という概念には広義の解釈があり、いわゆるトランス状態、洗脳状態もそのカテゴリーの一つとなります。よって変性意識という言葉の概念には、解釈としての明確な使い分けが必要となります。
回答講師斉藤亘弘

数年前、何の知識もなく松本を散歩して

分類1-4
質問数年前、何の知識もなく松本を散歩していて四柱神社にたどり着き、妙にウキウキした記憶があります。白川神道と関係があるとのことですが、その関係をもう少し教えて頂きたいと思います。
回答四柱神社に関しては、白川通信で取り上げた記事がありますので、ご紹介させて頂きますね。 白川通信第4号(平成25年4月) 白川探訪記(第4回連載)~明治初期の動乱と四柱神社~ 今回は長野県松本市に鎮座する四柱神社(よはしらじんじゃ)を訪れました。この神社は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神を祀る神社であり、建立されたのは明治初期であります。 幕末から明治初期の動乱期、国の型を構築する為、まず始めに祭政一致の体制を確立することが試みられます。具体的には、宮中で天之御中主神を祀るように、天之御中主神を中心に据えた神祇祭祀を軸としての体系化が図られました。明治ニ年には神祇伯である白川資訓を長官に置く宣教使の官が設置されました。続く明治三年、日本を祭政一致の国家体制とする「大教宣布の詔」が出されます。しかし、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、さらに欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なり、神道国教化の動きは混迷を極めます。明治六年には大教宣布の路線の再建、強化を目指し、教部省に大教院、中教院、小教院の制度が設けられました。しかしながら、様々な問題により明治十年に教部省は廃止され、機能は内務省社寺局へ移されることになりました。その後、欧米からの一神教的自然神学の影響を受けて、伊勢神宮の天照大御神を神々の中心に据える神社神道の体制を構築し、それがそのまま国家神道となり明治、大正、昭和と続いていきます。 そのような時代背景の中、明治七年、筑摩県(現在の長野県中信地方・南信地方・岐阜県飛騨)の中教院として設立されたのが、四柱神社の前身です。当時の院内には天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神の神様が祀られていました。わずか数年で中教院の制度は廃止されますが、その後の明治十二年、新たに一社を興し、四柱神社として現在の松本の地に厳かに鎮斎されました。 一方、白川家に目を向けてみると、幕末、白川家学頭の高濱清七郎は孝明天皇の命により宮中を離れていました。明治初期の動乱の中、明治天皇は高濱清七郎を宮中に戻すよう命じました。しかし、時の政治の実力者である三条実美は学頭を呼ぶどころか、死んだことにしたわけです。その結果、天之御中主神を中心に据えた神祇祭祀の体系化が実現しなかったわけです。明治天皇が望んでいたように祭祀を白川家に任せていれば、現在とはもう少し違った体制になっていたのではないでしょうか。そういった意味において、この四柱神社は当初の明治天皇の理想を残す数少ない神社の一つです。そのあたりの経緯を四柱神社の神主さんに尋ねてみましたが、はっきりとした回答を得ることは出来ませんでした。 幕末から明治初期の出来事を総括し、今また新たな国創りが白川学館に期待されているのではないでしょうか。
回答講師櫻井慎也

何故、白川神道は現在大学の

分類1-2
質問何故、白川神道は現在大学の講義の内容に含まれていないのでしょうか?どのような事情があるのでしょうか?
回答大学機関のアカデミズムの世界においては、神道の起源は律令制度を導入した7〜8世紀とみなしますが、その学説を固定的に定めていることが理由だと思います(テキスト参照)。一方、白川のおみちは、少なくとも縄文時代(1万年以上)にまで遡ることになります。
回答講師斉藤亘弘

現在のいわゆる各地に存在する

分類1-3
質問現在のいわゆる各地に存在する神社の存在と、皇室祭祀の関係がいまいちわかりません。また、吉田家と白川家の関係が、テキストを一読するだけだと敵対関係にあったような印象も受けるのですが(敵対というのは言い過ぎかもしれませんが、何かしら相容れないもののように読めてしまうのですが)この両家の関係はどのようなものなのでしょうか。P47下段、なお、吉田神道で知られる吉田家は~独自に神事を行っている、という点、「私的に」「独自に」というところなど、なんとなく本来の仕事以外のことに手を出している、という印象を受けます。
回答ご返答が遅くなり申し訳ございませんでした。現在各地に鎮座している多くの神社・お宮は神社本庁に加盟しており、それぞれの祭祀運営を地域の住民と共に行う形を取っています。 その祭祀内容は、神職養成専門の大学機関における学説を前提として(テキスト祭祀学参照)祭祀が執り行われています(各地域の神社に伝承される祭祀も含む)。 一方、現在の皇室祭祀は、昭和の戦後からは天皇家の私的行事として執り行われていることが実情となります。 宮中祭祀においての白川家と吉田家の歴史的な関係についてですが、宮中祭祀を受け持つ立場として以前から存在してきた白川家による神祇官職に、いわゆる政治的な手段をもって参入してきた歴史的経緯があるとして吉田家は解釈されるところがあるようです。この点については、元皇學館大学研究開発推進センター助教の山口剛氏が、歴史的事実としての資料検証及びに研究をされた学者として発表しています。
回答講師斉藤亘弘