ホツマツタエという文字がありま

分類1-11
質問ホツマツタエという文字がありますが、これを「言霊の書」だという人がいますが、白川ではどのように考えておられますでしょうか?やはり「偽書」扱いでしょうか?
回答ホツマツタエですが、白川がそれを偽書と見ているのではなく、学術の世界で偽書とされているものは、公で通用しないという観点から、あえて話題にすることはありません。白川が長い歴史の中で集めた資料には、当然神代文字も含まれます。しかし、天皇祭祀では公が了解する集合意識の場にもアクセスするため、公で認められていないものは、原則的に採用しないという立場を取っています。
回答講師小野寺潤

「鏡」で組み立て直すという事で

分類1-11
質問「鏡」で組み立て直すという事ですが、神道的にはどのようになることが正しい道という事でしょうか?
回答講義で説明した「イソノミヤ」が理想だと思われます。「イソノミヤ」は、「五十音宮」であり、鏡は五十音の象徴です。では、五十音とは何でしょうか。普段私たちが話している言語は日本語であり、五十音です。話し言葉、書き言葉という表現がありますが、それらは次元の階層を降りた結果としての五十音です。では、耳に聞こえる、あるいは目で見える文字になる前に、五十音はどのような形になっているでしょうか。そうです。形はありません。霊(たま)という振動ならあります。振動の前には何があるでしょうか。何もないでしょうか。いいえ。意志の存在があります。もはや振動ともいえない状態です。言霊学ではこれを神と呼びます。その子供や孫が文字になったり話し言葉になったりしますが、神の子はやはり神です。普段会話をしたり、何かを書いている時は、全く無自覚に言葉という神を使っています。神というよりは、道具といった感覚です。道具という感覚のため、ぞんざいに扱う傾向があります。しかし、それが神だと知ったら、どうでしょうか。もちろん、口にしないまでも、心の中であれこれ考える時にも言葉は使います。そうした心の声にも神が使われていると知ったらどうでしょうか。そうですね。いい加減な使い方はできないはずです。しかし、神を使う自分という言い方はピンと来ないかもしれません。人間である自分が神を使うことはありえない、と。神を扱えるのは神だけです。とすると、自分は実は神ではないでしょうか。言霊五十神、言霊百神といいますが、五十神を認めているのは誰でしょうか、五十神を使って会話をしているのは誰でしょうか。自分以外、人間以外ありえないのではないでしょうか。結論として、五十音は神である→人間は五十音を使える→人間は神である、ということになります。なぜなら、次元の階層上、神でないと神を扱えないからです。少し強引でしょうか。ここで、最初の「五十音は神である」に引っかかると、次に進むことができません。しかし、自分に把握できるにせよ、できないにせよ、古事記にもあるように歴史的に「言葉は神」だといわれているわけです。聖書も言っています。「初めに言葉ありき、 言葉は神と共にありき、 言葉は神であった」と。仮に言霊の体感がないとしても、これだけ言っているわけですから、頭の知識として入れておいてもよろしいかと思います。ここでご質問に戻ります。鏡のことを踏まえ正しい道は何か、ということですね。それは、「言葉は神であり、自分は神である」という自覚を持って生きることではないかと思います。その自覚があれば、人は外部の環境に影響されず、真に主体性を持って生きることができます。これが、無支配という意味を持つ「イソノミヤ」のあり方なのです。イソノミヤ=五十音=鏡=神=自分ということです。
回答講師小野寺潤

宮中に隠されていった言霊の文献

分類1-11
質問宮中に隠されていった言霊の文献とはどういう名前の文書でしょうか?
回答言霊学上最も重要な書物は、『古事記』であるといえますが、現在私たちが知る『古事記』は、言霊が神の名前となって暗号化されていますので、その類の『古事記』が隠されていたわけではありません。その暗号の秘密を解くための文献があったと考えられます。そのような観点で、明治天皇は、『古事記』や『日本書紀』の様々なバージョンを集めたといわれます。また、昭憲皇太后は、一条家桃華堂文庫から言霊布斗麻邇に関する文献や「和歌三十一文字を作る心得」を書いた古書、和歌の道の奥義書を嫁入り道具のように持ってきたそうです。更には伊勢神宮の神宮文庫にある神代文字の書も集められました。そこには、稗田阿礼と太安万侶が伊勢神宮に奉納したヤマトタケルの書も含まれます。こうして明治朝廷による言霊学研究が始まりました。明治天皇の研究のお相手を務めた山腰弘道(昭憲皇太后付き書道家、神代文字研究家)からも様々な書が持ち込まれました。ご質問に対するお答えとしましては、「五十音の秘密を解くための様々な文献」がそうであるといえますが、具体的にどの本ということは特定できません。
回答講師小野寺潤

言霊は階層性とも関わりを持って

分類1-11
質問言霊は階層性とも関わりを持っているのでしょうか?そうなら、どのような形で関わりを持つのか教えてください。
回答言霊は階層性そのものでもあります。どのような切り口で階層を捉えるかで、分け方も変わりますが、言霊学における代表的な分類方を紹介します。 イ:意志・・・神・・・総持 エ:結合・・・霊・・・道徳 ア:精神・・・魂・・・芸術 オ:情動・・・心・・・科学 ウ:生命・・・体・・・産業 「ウ」は赤ちゃんの生命の響きである「うぅ~」、「オ」は、何かに対して「お~」とか「おう」と応じる声の響き、「ア」は、「あっ、わかった」の「あ」、「エ」は「え~と」の「え」で選ぶ作用、「イ」は縦に中心を貫き通す意志の「い」です。テキストにも書きましたが、言葉の響きがピタリと合っていることに感動し、歌を詠んだのが、たとえば山上憶良でした。(なにやらマンガチックですが、そのような当り前の世界から言霊学は始まります)本来このイエアオウは、微妙な振動であり、イとかエという形で一括りにはできないはずです。なぜなら、イという形で括ってしまうと他の可能性を全て排除することになるからです。しかし、総括して五階層・五次元に分けられることを発見したのが、先人(神)の知恵であり、言霊の妙でもあります。すると、この五つの音には何らかの真理が隠れているのではないか、と見ることができるわけです。そして、その五段を上記のような性格/性質に分類できる、というのが「言の葉の誠の道」の教えです。これにより、人間の性格や能力、文明のあり様、未来を合わせ鏡として分析できるようになるといわれます。(ただし、全ての説明には膨大な文量が必要になりますので割愛させていただきます)一般的には、自分の状態をこのイエアオウで確定させることができます。お腹が空いていれば「ウ」の自分が出てきますし、怒ったり後悔などしている時には「オ」の自分、何かが閃くと「ア」の階層となります。たいてい人間は、ウかオの階層にあり、よほどのことがない限りそこから出ることはありません。つまり、「ウ=体」か「オ=心、感情」のどちらかに囚われているわけです。まれに絵を書いていたり、音楽を聞いていたりする時に、心も体も忘れて気持ちのいい状態になることがありますが、その時は閃きがあるなしに関わらず、ウとオの次元を超えた「ア」の次元にいるということができます。「エ」は「選ぶ」なので、それほど次元が高そうにも思えませんが、いわゆる一般的な「選ぶ」という行為は、ウかオの階層に所属します。夕食はラーメンかチャーハンか、この人に感じるのは怒りなのか悲しみなのか、といったレベルです。ここでいう「エ」の次元とは、叡智の階層であり、ウオア全ての次元の中から、然るべきあり様を選ぶという意味合いになります。「イ」は本来説明の許されない階層でもあるのですが、あえて申し上げれば、全ての階層を超えて意識の形を発動するもの、となるでしょうか。この図式でいうと「ア」の階層が、仏教でいう「空」=悟りの実現まで入っていますので、それ以上はある意味、神の領域といえるかと思います。しかし、それが自分の外にあるのではなく、内にあるというのが、言霊学の教えの肝の部分でもあります。人間は実は無意識でこの五つの階層を使って生きているのですが、それを自覚しようというのが言霊の学びです。常に自分がどの階層にいるのかを“観る”ことにより、現実がどのように創造されているのかを掴むことができ、それにより新しい現実を創ることができるといわれます。
回答講師小野寺潤