数年前、何の知識もなく松本を散歩して

分類1-4
質問数年前、何の知識もなく松本を散歩していて四柱神社にたどり着き、妙にウキウキした記憶があります。白川神道と関係があるとのことですが、その関係をもう少し教えて頂きたいと思います。
回答四柱神社に関しては、白川通信で取り上げた記事がありますので、ご紹介させて頂きますね。 白川通信第4号(平成25年4月) 白川探訪記(第4回連載)~明治初期の動乱と四柱神社~ 今回は長野県松本市に鎮座する四柱神社(よはしらじんじゃ)を訪れました。この神社は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神を祀る神社であり、建立されたのは明治初期であります。 幕末から明治初期の動乱期、国の型を構築する為、まず始めに祭政一致の体制を確立することが試みられます。具体的には、宮中で天之御中主神を祀るように、天之御中主神を中心に据えた神祇祭祀を軸としての体系化が図られました。明治ニ年には神祇伯である白川資訓を長官に置く宣教使の官が設置されました。続く明治三年、日本を祭政一致の国家体制とする「大教宣布の詔」が出されます。しかし、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、さらに欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なり、神道国教化の動きは混迷を極めます。明治六年には大教宣布の路線の再建、強化を目指し、教部省に大教院、中教院、小教院の制度が設けられました。しかしながら、様々な問題により明治十年に教部省は廃止され、機能は内務省社寺局へ移されることになりました。その後、欧米からの一神教的自然神学の影響を受けて、伊勢神宮の天照大御神を神々の中心に据える神社神道の体制を構築し、それがそのまま国家神道となり明治、大正、昭和と続いていきます。 そのような時代背景の中、明治七年、筑摩県(現在の長野県中信地方・南信地方・岐阜県飛騨)の中教院として設立されたのが、四柱神社の前身です。当時の院内には天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神の神様が祀られていました。わずか数年で中教院の制度は廃止されますが、その後の明治十二年、新たに一社を興し、四柱神社として現在の松本の地に厳かに鎮斎されました。 一方、白川家に目を向けてみると、幕末、白川家学頭の高濱清七郎は孝明天皇の命により宮中を離れていました。明治初期の動乱の中、明治天皇は高濱清七郎を宮中に戻すよう命じました。しかし、時の政治の実力者である三条実美は学頭を呼ぶどころか、死んだことにしたわけです。その結果、天之御中主神を中心に据えた神祇祭祀の体系化が実現しなかったわけです。明治天皇が望んでいたように祭祀を白川家に任せていれば、現在とはもう少し違った体制になっていたのではないでしょうか。そういった意味において、この四柱神社は当初の明治天皇の理想を残す数少ない神社の一つです。そのあたりの経緯を四柱神社の神主さんに尋ねてみましたが、はっきりとした回答を得ることは出来ませんでした。 幕末から明治初期の出来事を総括し、今また新たな国創りが白川学館に期待されているのではないでしょうか。
回答講師櫻井慎也