0002話:2016年11月21日

◇雅楽の奉納演奏について

先週、雅楽の奉納演奏を祝殿にて行いました。演奏していただいた西原さんは、十二音会に所属して、日本の雅楽界の最高峰の方です。篳篥(ひちりき)の奏者であります。西原さんによる演奏の中で、色々と気がついたことがあります。西原さんには前の日から色々とお話をお聞きすることができたのですが、その中で、いくつかお祓いに役に立つのではないかという内容がありました。日本において、お祓いというのは、一つの音楽に至る前のようなものであります。周波数が西洋の音楽とは違うので、合わせるのが難しいということがあるようです。合わせる際の日本的なやり方は、あまり知られておりません。非常に自由度が高い雅楽が、西洋の音楽に対して合わせていく方法は、我々にとっても役に立つ事が分かりました。

これまで我々は、ヨーロッパの音楽の教授たちから色々と習ってやってきたのですが、あまり上手くいきませんでした。分離唱では、音をよく聞くということを習いました。来談者中心療法のようなところもあるのですが、聞く、よく聴く、聴き入るということは非常に役に立ちました。分離唱では自分自身の発声を小さくして、周りの声に耳を傾けるという方法でした。

◇音頭と微音とシューマン波

今回の雅楽奉納演奏で分かったことは、二つ。一つ目は、「音頭(おんど)を取る」ということです。「音頭を取る」という言葉は雅楽から来たフレーズだそうです。音の主旋律ではないですが、はじまりを指し示すというような役割が奏者にはあるそうです。どの楽器に、どのような役割があるのか詳しくは分かりませんが・・・。あるときは、太鼓かもしれませんし、あるときは、笙かもしれません。私はそのお話を聞いて、音頭というのは「音の頭」ではないかと感じました。二つ目は「微音」ということです。微音というのは微かな音ですから、分離唱のようなものもそうだと思います。微かな音を出すとき、祓詞においては、最初に出す人は「とほかみえみため」の最初の「と」で、神と一体となる世界があるんですけれども・・・、その「と」を出したときに、その「と」の音に耳を傾けながら、周りは音を合わせるということになりますね。

たとえば、私が「と」といったときに、その「と」の音に合えば良いということです。その音のはじまりは何度かあります。「とほかみ・・・」の「と」や、「高天原に・・・」の「た」のように。そのときどきのはじまりの「音の頭」を聞いて、微かなところから合わせていくという感じだとより良いと思います。合うことだけが目的ではありませんが、合わないと不快な感じとなることもあります。音楽というものは、聞いていて不快ではいけません。楽しくなくてはいけません。もちろん、祓いは音楽ではありませんが、音楽の元のようなところもあると思います。微音と音頭を取るということから学ぶことは多いと思います。

雅楽の楽器のなかには、音が出ていないように聞こえるものもあるそうです。低周波ということだと思いますが、聞こえるか、聞こえないか分からないような音があります。それはお祓いの中にもありますね。その聞こえない音は、頭の中では、ガンガン響いているかもしれません。それはその人に聞いてみなければ分からないですが・・・。犬笛なんていうものもあります。地球の固有の振動数であるシューマン波に限りなく近づく音もあるということですね。そういう音が、この人間の細胞というか、魂というか、精神を揺さぶるような響きになるのだと私は思っております。

お祓いの発声を、自分自身で客観的に聞いて、今日はこういう気持ちなのか、今日の自分はどのような状態であったのか、と気づき、今日はどのようなことに気をつけて一日を送ろうか、ということなどの客観視がお祓いをすることで可能となります。

◇声を客観視する

笛というものは、かすれる音を出します。私が子供のころ、喉に大きなソフトボールが当たったことがあります。その影響で現在の声がこのようなことになりました(笑)。でも、かすれた声というのは、笛がずっとかすれているといったようなことと似ていると思いました。この歳になって、自分の声がこのような声でいいんだと自信を持つことができました(笑)。自分の声が良いとか、悪いとかではなく、声を客観視して、自分自身を知る手立てにしていけばいいと思います。

◇神と人との産霊(むすび)

言霊といったときに、それは神ではないです。神とは、創造意志です。それぞれの働きのことを神というわけです。言霊の働きも一つの神の働きではありますが、どちらかというと、創造意志といった神の働きとは違うわけです。創造意志という神の働きを自分自身で感じ、神の創造意志と自分自身を、言霊というもので繋げて、自分自身の声帯あるいは、肺、あるいは、喉のヴァイブレーションに合わせていくということが、最高の音色になります。そのときに天使のような音というか、天の声というようなものになると思います。天の声というか、人の声が天に上がっていくとき、結合する音色があるわけですね。笙というものは「天」の音として捉えられ、「地」の代表的な音としての篳篥(ひちりき)というものが合わさっていきます。あるいは、笛というものが、それを繋ぐ音を出していて、全く本来は合うような音ではありませんが、それが結合していくというか・・・。そのときの感じというものが、産霊の魂であり、生産霊(いくむすひ)、足産霊(たるむすひ)、玉留産霊(たまつめむすひ)、高御産巣日(たかみむすひ)、神産巣日(かみむすひ)というような産霊の働き、エネルギーが瞬間に起こっていくということだと思います。

◇お祓いを通して

 

我々は、父韻と母音が結び合って子音になり、その子音を聞きながら、音色を自己自身に返して、自分自身の音色を聞くわけです。あるいは、そのときに合わさった言葉や役割を聞くということが本来の神事です。お祓いをするということは、自分自身の仏教的・宗教的にいうところのカルマのようなものを確認するということから始まるわけです。私は七十歳に近づいて、自分自身の音色が少し分かったように、皆さんも自分の声の中に嫌なものや、辛いものなどがあるわけです。その悲喜交々が入り込んでいて声になるわけです。それを嫌と思わないで聞く。それを客観視して、自分の今の状態を知っていくということが、まずは大切だと思います。その上で自分自身の音色が、神の宇宙創造意志に近づき、そういうものを迎えられるような・・・。言霊を使って表現していくことができるようになる、ということが一つの客観視だと思います。毎日、お祓いをするとき、自分自身の声を聞くことで、そういうことに繋がると思います。

◇正と負のエネルギーを使って

毎日、鏡で自分を見ると思います。そこには良い自分が映っていると思います。今の鏡は白雪姫の鏡のように良い自分しか映らないです。反転鏡で反対に映すと、一番嫌な自分が映るわけです。その反転鏡を水創りに使っていくわけです。「魔」もビックリするような鏡のようなものです。自己自身の姿や声を見たり聞いたりすることによって、客観視が深まります。

自分の声をテープレコーダで聞くと、思っている声と違って聞こえると思います。客観視することによって、自分の反転した宇宙が拡がっていきます。正の力も、負の力も自分のエネルギーにしていく。両方をエネルギーにしていくような・・・。この宇宙の半分のエネルギーの出どころが分かるようになります。これからは、正と負というものが自在に動くようなエネルギー場が大事になってくると思います。そのことは頭の隅に入れておいていただければと思います。

我々の日々の生活の中では、みんな半分しか見ていないし、半分しか聞いていないし、半分しか感じていないものが沢山あります。もちろん、多くて半分だと思いますが・・・。半分の見えないところを感じられるような生き方みたいなものを許容しながら生きていかないと、生きるということが辛くなると思います。もう半分を掴もうという決心があって、そしてそれを認めながら、いつ分かるようになるか分からないけれども、それを掴もうとやっていくことに非常に意義があると私は思っております。

◇終わりに

現在は社会が大転換をはじめています。また元の木阿弥になるかもしれませんけれども・・・。

今は再編成、編み直しが起こっています。一度編んであるものを解いて、もう一度編み直しをするということが世界的に起こっていると思います。この状況を逆にチャンスにして、自己自身の編み直しをはかるということが非常に有意義になると思っています。

そういう観点で捉えていってほしいと思います。

ありがとうございました。