0004話:2016年11月24日

雪が降るとですね、気の流れが晴れているときと逆になります。気が逆転します。若干気分が変わります。雪の景色というか、やっぱり脳が反応してですね・・・。

◇音楽の縛りからの解放

今日、感じたのは、皆さんは西洋音楽、西洋音階に毒されているということですね。明治のはじめ、東京芸術大学の元になった音楽学校の名前は、音楽取調所だったそうです。何を取り調べていたかというと、結局、西洋音階の方法と日本の音階が全然違うからですね、日本の音階ではない、西洋音階を取り入れるために、音に縛りを加えていたわけですね。要するに、ドレミファソラシドのようなものです。その縛りが我々の中にもあります。お祓いは、日本の音階どころか、音楽でもない、声でもない、丁度、分かれるときの響きなんですね。楽器でいうと、ディドゥリドゥの「あいうえお」が吹けるような中身でもあるんだけども・・・。音楽というようにみんながですね、洗脳を受けているわけですね。小学校からそのような教育を受けてきたわけですから・・・。今日ですね、みんなそのような教育を受けたんだと改めて気づきました。私も受けたんですけれども・・・。

◇音痴でもよし

僕は学生のとき、みんなの前で歌を歌うのが一番嫌でした。どちらかというと音痴かもしれないですけれど(笑)。考えてみれば、我々が祓詞を奏上するとき、音痴の方がほとんどいないので、楽しくないけれども・・・。

音痴の人がいたら音痴に合わせたら良いというか、合わせるというよりも、その音階も取り入れるというかですね。音痴というのは音が色々と変わるんですね。一つの音階を取れない、ということだと思います。

我々も音痴になればいいんです。音が変わって良いんです。合うだろうなという自分の声をよく聞いて、みんなの響きをよく聞いて、その中で一番気持ちの良いところであげればいい。なにも自分が一音上げたらいけないとか、そういうことをしなくていい。構わないんです。そのとき、そのときでどんどん変えても良い、というルールにすればですね、すぐ合うようになるのではないだろうか。みんな心が繋がっているから・・・。それが今日の感想ですね。

なぜこのようなことをいったかというと、明治の時の音楽の取り調べの縛りが我々の脳の中にあるんだと気付いたからです。雅楽の西原さんは、西洋音楽と一緒に演奏するときは、西洋音階に合わせてあげるそうです。向こうが合わせることはないんだということをいっていました。

我々の祓詞はですね、半音上げても構いませんし、下げても構いません。あるいは、一オクターブ変わっても構わない。普段は自分が好きな音階で奏上していると思うんですが、そのままでもいいんです。若干上げても、下げても大丈夫です。そういうルールにしましょうということですね。そうしたら、すぐに自分が気持良いところにいくことができます。

分離唱では、よく聴く、聴き入るという考え方があるんだけれども、聴くということによって、音頭を合わせていたのだと思います。

◇今日には今日の音頭(おんど)がある

音頭というのは誰がとるということではなく、今日には今日の音頭がある。音頭というのは、音の頭であるんだ、と。自分自身で合わせていくと、シューマン波ではないですけれども、元の響きに帰ってくるというか、気持ちが良いというか・・・。そんなことが大事なことではないかと思いました。その縛りを外してですね、これからはみんなでもって、自由自在に音を外して結構、あるいは合わせて結構ということにしましょう。そうしたら、節目節目で合っていくと思います。そういう合い方で構わない。そういうふうにしていきましょう。

江戸時代の頃、白川〝家〟学館がやっていた頃の話を聞くと、音階とか、そういうことではなくて、ただはじまりのときに、鈴で音頭を取ったそうです。高濱浩先生が、どんな音でもいいよといっていた中身は、そのようなところにあったのかもしれませんね。

自由だという観点で、我々は西洋音階に縛られないで、和の音にしてやってみればいいのではないか。これからはそんな感じで構いません。

◇みんな天才、慢心せずに

もう一つ気付いたことはですね。昨日も、それぞれの担当者が皆さんの前で立って話しましたよね。そのとき、僕が思ったのは、担当者の皆さんが凄い能力者なんだということです。天才なんだということです。そしてお話を聞いている皆さんもまた、一人ひとりが天才であるし、私はそれを認めて、共にやっていただいているという自覚なんですね。自分自身の能力を卑下したりするということに対して、ものすごく僕は腹立たしく感じているわけですね。一人ひとりがみんな天才だと思って、お願いしているわけです。

白川でたった一つやってはいけないことは「慢心すること」です。これは天才にしかいえない言葉。天才だけが慢心するんですよ。みんなが天才なんですよ。自分の考えや自分の発想がすべて正しいと思うことが慢心なんです。慢心しないようにしながら、ということは難しい話でもあります。もう一方では、卑下することも慢心である。それは自分自身の道を塞いでいきます。両側から塞いでいくということが心の世界では起こるので、非常に注意が必要です。それがひとつの慢心という言葉になっているだけです。卑下して慢心しても、慢心。慢心して慢心しても、慢心、という感じですね(笑)。そのようなことを考えていかないといけない。

仏教でも差別は「しゃべつ」といっています。皆さん一人ひとりが能力は違うけれども、それはたった一つしかない能力。ということは、天の才である。たった一つ才能をもっています。人の才と比べても仕方のないことですね。

現在、我々の動きというのは、ある面では多岐にわたっております。そういう面で見ると、沢山のことをやらなければいけないという意味の天才を要求しているかもしれない。それはですね、この時代に合ったような、そういう能力を持っているということを自覚していかないと、自分が変なことになってしまいます。特に、このようなお祓いは、神官や臣がやるような話ですね。そんなことを我々は朝からやっているわけです。

◇みんな天才、受け入れる

例えば、音楽にしても、日本で天才といわれるような、オペラ歌手や雅楽の先生たちがここのところですね、非常に注目されています。みんなの能力を認めているんですね。それはハッキリと一緒に話すと分かるわけですね。音楽にしても、芸術にしてもそうですね。

井坂さんのインスタレーションの世界では、芸術家の中では、文科省もみんなお願いしにくるくらいの方ですね。能力者ですね。我々は、そういう方と当たり前にやっているわけですね。みんな平気で見て、受け入れているわけですね。

自分が受け入れるということは同じ能力がなければ受け入れられないでしょ。もちろん、どの程度の、ということはあるかもしれないけれども、出し方が違うだけであって、出した者と受け取る者とのコミュニケーションによって、すべての価値が決まってくるわけです。

いくら天才がいても、ダメなわけです。受け取る天才もいなくては・・・。そういう意味で、同じ能力を持っているともいえるわけですね。

◇慢心せずに、全力で

皆さんは、朝な夕なにソフトウェアや機械など、全く世の中に無いようなものを創り出すということを平気でやっているわけですね。そんなことは天才のような話です。そういうものでコミュニケーションをするということは、これはもう稀有な天才の能力なんですね。僕なんかは自分の能力がないとわかっているけれども、コミュニケーションのプラットフォーム創りというか、統合というかですね、精魂についての理解を知らしめるということについては、自分なりに卑下しないで、伝える役割があると思っているから、皆さんに提示してやっていただいているわけです。皆さんは、いわゆる慢心や卑下慢、どちらかの影響を受けているかもしれません。そこをですね、しっかりと確認しながら「慢心しない」ということを、たった一つの共通のルールにしていけばいいのではないかと・・・。

高濱浩先生は、三十数年前に来ていただいた時から七年間ずーっといい続けていたことは、「慢心しないように」ということです。毎日のように伝えてくださいました。なんでそんなに伝えるのだろうと当時は思っていましたが・・・。

昨日、皆さんが前に出て話してくれたことは、皆さん一人ひとりがそのような中身を持っているわけだから、決して、そこを慢心しないで、しかし、全力を出していくということをですね、やっていただきたいと思います。今日は雪ということもあって、逆転しますから、晴れたときの想いと違うような、ある面では、自分の心の中にある、別の鬱滞が解けて、様々な情緒の流れが湧き上がって来たのかもしれません。

ありがとうございました。