0011話:2016年12月06日

一年間大学で教えてみてわかったのは、白川学館の神道の教えというのは、コミュニケーション・プラットフォーム(呼応の場づくり)なんだということですね。人と人、人と自然、人と神・・・。人と神というと、一種の宗教的に思われたり、新しいカルトだと思われたりするけれども。これは、白川学館で一番古いものであって、日本の伝統そのもの、一番守られてきた最後の砦、宝だと思いますけども。コミュニケーション・プラットフォーム、学問的にいえば、コミュニケーション論だから、心理学やマーケティングや、あらゆる宗教も含めて様々なものとの関わりがあるという自覚でやっていたのですが、どうも誤解があるかもしれません。

前回、コミュニケーション論ということで話したのは、人と人、人と自然、人と神ということです。生きている人とは当然として、亡くなった人、すなわち死者とのコミュニケーションも含まれています。

インドのヒンドゥー教には、piya(ピヤ)という言葉が残っております。これは、先祖に対する愛ということです。先祖に関する丁度良い歌があったので、皆様にお配りします。

芦澤紀之さんの『暁の戒厳令』という本の序に、筧克彦先生の歌がありました。

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三代一人

親の祖(おや)またその祖を懐かしみ

この子のその子に清明心越(あかきこころを)

「三代一人」とは忽然としてあるものではなく、親から与えられ、また子に与えていくものである。親子の繋がりは永遠であり、親への責任、子への責任を果たしてこそ、はじめて社会的な人間らしくその人格が作り上げられるという。自分から見れば孫を含めて、つまり三代一如でようやく人として一人前というわけである。

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筧克彦さんというのは、明治生まれですけれども、日本の戦前まで神道思想の中心的な方でした。この歌でいっていることは、日本では先祖崇拝が盛んですが、懐かしみというのは愛情があるということから生ずる情緒でありますから、現代風にいえば、先祖に対する愛情ということ。それが残っていた。我々は、お父さん、お母さんを当然のごとくに愛しているわけです。そして、子も孫もずっと続いていくわけですね。ある面では、中今ですね。過去と未来があって、今に至っているわけですね。中今の考え方ですね。というのが、天津神・国津神の七種の入門になっているわけですね。

◇愛し、慈しみ、感謝し

そのときに白川の言葉で遠津御祖神、遠いとか、祖(おや)とは、まさに離れているという意味合いであるのですけれども、我々は生きた先祖ということもできるわけですね。皆さん若いので、まだまだこれからというのはあるんですけども・・・。要するに、中今の中で見ると、我々が生きた先祖になるということですね。先頭にあるということですね。生きた態度というのが、先祖というものを愛し、慈しみ、感謝し、この子たちをさらに大切にして守るということが当然のごとくあるわけですね。

この七十年というものは、社会の最小単位としての家族、そして、その家族が核家族化したことによって、おじいさん、おばあさんと一緒に孫をみるということがなかなかないわけですね。それ自体が、社会の基本だと思ってやってきたかもしれませんが、大きな間違いです。その中で発生したものが、カルトだと思うんですね。だから、我々をカルトなんて呼ぶことは、とんでもない誤りです。天にツバしていると思うのですが。

そのくらい僕は確信を持っています。

◇天皇家も

生きるということの、人類が長続きする、民族が長続きする、天壌無窮万世一系(てんじょうむきゅうばんせいっけい)というか、もともと天皇家というのはそのようなことを基本として存在してきたわけです。それが、伊勢神宮内宮にある天照大御神を拝するというかですね。天津神の中のお母さん、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神を祀るというのが伊勢神宮の本来の役割ですが、基本的にそういうことがあるわけですね。

天皇家は、内宮で先祖を祀っているわけですね。それを見せるというか、表現しているわけですね。そういうことがなかなか分からない。

◇白川の「おみち」

この白川の「おみち」というのは、それを一つのシステム論的に表現している。その方法や掴み方までも表現しているわけですから、それをしっかりと掴むということは、この時代になっても、古いように見えますが、最先端の科学であると、僕は納得して、確信しています。そして、この道を皆さんにお伝えしているわけですから。そういう意味で、遠津御祖神というのは最初の導入ですね。

◇人類のはじまりは

ということは、人類のはじまりがアフリカかどうかは分かりませんが、今のDNAから見ると、縄文人というのは早い時期からアフリカを出た一部ではないか、と最近の核DNAの研究によってはっきり分かってきたようです。東アジア人や西アジア人でもない、その前の段階のようです。アフリカの中で、白人が十六分の一ぐらいの確率で生まれるので、その人たちがはじめにその集団がアフリカから移ったのではないかと。

我々は白人でもなければ、黄色人種でもない、と。色々と混じっているから分からないですが、非常に白い人もいるわけですね。それは単純に、いわゆる白人種ではないかもしれません。不思議な事が解明されるときが来たかもしれません。核DNAの検査によって分かってきたということで・・・。非常に古いものということが見えてきたんですけれども。

◇まとめ役

その中身は要するに、元の人類の発生に近いようなところから、我々というものはそういう記憶を強くもっている。それは少なくとも、これからの人類が調和していくときに、大事な遺伝子というか、まとめる役になるのではないか、と遺伝子からも分かるように思うんですけれども。

少なくとも、古くからの人間というものに関わる、そういうものの全てを守り、そして、敬っていくということが、我々白川のおみちの中にある大事な部分である。亡くなられた人と生きている人が交わる、その表現ですね。亡くなった人たちを遠津御祖神といっています。仏教では先祖という言い方をしますけれども。

◇存念を祓い清める

この歌にもありますように、先祖という意味合いと祖(おや)という意味と二つあるわけですね。遠津御祖神といったときに、その両方で表現してもいいというかですね。昔のものを見ますと、そのようになっているわけですね。遠津御祖神ということを、神にしていくというか、単なる敬いだけではなく。亡くなった方だけではなく、亡くなる直前の存念のようなものが伝承されていると考えると、それが悲しみ、あるいは楽しみがあると思いますが、そういうものを含めて、存念を祓い清めるというかですね。清明心をもたらそうということであります。

ここに二つ加えると平安清明となります。平らかな気持ちと、安心と、清々しい心の状態と、明るい心、平安清明に代表されるような情緒に先祖の方々にもなっていただく。ご苦労様でした、というねぎらいの想いを持つということですね。

◇因縁を綺麗に解消していく

遠津御祖神というのが、仏教的、あるいは宗教的な人たちがいうところによると、業とか、カルマとか、原罪とか、罪とか、そういうものを越えていくときの、それが遠津御祖神との関わりなんですね。亡くなった方は、それができないけれども、今、生きていく人たちは償いというか、解消ができるわけですから。それを上部因縁、下部因縁という言い方もありますが、遠くのそういう因縁というもの、あるいは近くにあった因縁というものを、綺麗に解消していくということが、この祓いというものの役割ということになります。同時に、自己自身がDNA的にいうと、精神遺伝子が解明されていないですけれども、そのようなものが一気に解消されることによって、自己自身の運命転換というところが非常に大きな射程距離に入ってきます。原罪とか、罪とか、業、カルマというものに対して、人間が越えられない運命があるということによって、この二千年間、人類はずっと不幸を解消できなかったといいますか・・・。

◇超えられる何か

そのために、菩薩行という、とんでもない人間の修行が、ある人達には必要だった。それを一人ひとりが解決できるようなものにしていかないと、我々としてみても、この時代に生まれた意味がないのです。我々は今、そのようなことに直面して、そこを越えられる何かをしなければ、この時代にあっても何の意味もないと思っています。もちろん科学的な意味において、この時代に早急にできるかどうか分からないけれども、そういう大転換の時が来たわけです。

我々が意識進化なんてことを口にするということは、そういうことが当然、射程距離にあるからこそいうわけです。何の可能性もなければ、それは詐欺であるわけですね。そういうことを、我々はきちっと実践していき、みんながより良い健康と先祖の因縁の解消と、それからこれからの人生を楽しく、人類のために役に立つような形で生きるということにおいて、出発にしていただくということが非常に大事なことになります。

七種で天津神・国津神、遠津御祖神ということを表現しているわけですから、その遠津御祖神の中身をじっくりと精査して、そしてそれを実現していく、一体となっていく。これがまた、次の国津神という神、それは自然神を含んでいるわけですけれども・・・。

氏神や、あるいは民族の神や人類の先祖というものを含めた神というものを国津神と呼んでいるわけですけれども、そういう精緻な神の世界が一方であります。そういうものに我々を繋げていく。

◇死者と人間の関わり

我々そのものが遠津御祖神であるという自覚に至らないと・・・。そういうことは、心理学でやるわけではない、宗教でやるわけではない。それを実感していかないと、次のところに入れない。

今、金大偉さんとか能澤さんとで、映像化ということで一緒にやっているのは、「折口信夫の死者の書」ですが、〈死者の書〉というのは世界中にあるんですね。死後の世界だけではなく、死者というものが生きている人の中で、いかに蘇るか、ということがあるわけですね。そのことを我々は今、映画やDVDで作れないかということを色々と検討しているわけです。そういうものは非常に大事なものです。死者とは何か、死者と人間との関わりがどういうものかということをしっかりと分かるような形で体系付けていくことをしようと思っています。また、皆さんにはその辺りも含めた表現をお伝えできるのではないか、と思っています。何せ、まだ始めたばかりではありますが・・・。

◇白川学館大学の設立

僕はネット上に白川学館の大学を創りたい。外国の方々に教えるということもありますが、それは二年間で十分ではないかと思っています。これからは、ネット上に大学を創りながら、進めていくというかですね。我々のこの具体的な学びというのは、ほとんど大学院大学のクラスの知恵とか知識というものであるので、非常に難しい面もあります。

ただ、実験祭祀学ではないですが、実験していかなければいけない。それはそういう論理やあるいは、そういう実証の部分も当然含めての実施でありますので、非常に難しいテーマでもあります。ただ、そのところに行かないと、世界に対して提案が遅くなってくるというかですね。一年の大学の講義の程度で留めておくだけにはいかなくなっている。そういうことも大事なところですが、そこを越えて、我々が単なる人文科学だけではなくて、今、ワープで社会科学という観点からも、「おみち」というものを提案しようとしているわけです。もちろん、当然のごとく、物理学的な窮理学というものを、明治時代にできなかったことを含めた内容を提案していこうと思っています。

これから様々な関連の方々がいらっしゃいます。今日も医学博士であり、日本の医療に革命的な考えを持っている方がいらっしゃいます。そういう方々、学研の友といいますか、いわゆる世界からそういう様々な宗教以降のひとつのモダニズムの後の、ポスト・モダン、トランス・モダンのような新しい時代の哲学や学問に見合うような、中身を追求する一つの集団として、僕は今日、ネット上に白川学館の大学を設立しますと、皆さんを前に宣言します。その辺もひとつ宜しくお願いいたします。大学ということを一応、名乗るので、単なる神道の大学ではないことをやっていこうということですから、意識を拡げていただいて、今後もやっていこうと思っています。

今日もよろしくお願いいたします。