0014話:2016年12月09日

【七沢代表によるiCLA最終講義概要】

神道が、日本文化の中核になるという考え方とか、哲学とか、方法論とかいっぱいあるのだけれども、みなさんは、日本にせっかく留学されているので、この部分、神道というものが日本文化を理解する上で、まず第一に必要なものではないかということで、二年間ひとつワークショップをさせていただいたわけでございます。

神道というものには、外に布教するという宗教的な意味合いが一切ないわけです。特に我々が学んだものは、ほとんど門外不出といいますか、外に出なかった中身であります。これは千年というような単位で、ずっと表に出なかった中身、公開してこなかった中身が白川であり、古神道であります。その中で、新しくお伝えするということでしたので、伝え方が非常に難しいと思っていました。

◇古神道を文化や文明に分類する

どういう学問になるのかと考えたとき、宗教学的に捉えて、神道とは宗教なのか、と考えると、古神道というのは宗教でないというところがあるし、古代信仰、アニミズムとかトーテミズムとか、フェティシズムもそうですが、あるいは、シャーマニズムというものの中に丸ごと入るわけでもない。一体なんなんだろうと考えていったときに、文化とか文明とか、そのような分類で理解したら良いのではないかと思ったわけですね。一番古いもの、古神道というものをお伝えしながら、この二年間の中で、大体こういうことなんだな、ということが見えたわけですね。

第一回目の講義のときにもお伝えしましたが、古神道というものは、日本人のコミュニケーションのプラットフォームであったということであると見当が付いてきました。人と生きている人、生きている人と死者のコミュニケーション。人と自然というコミュニケーション。それがコミュニケーションというかどうかはそれぞれですが・・・。そして人と神。神も一神教的な神だけではなく、多神教的な意味の様々な神とのコミュニケーションというかですね。そういう全体と関わり、が含まれているのが神道。我々はそれらの関わる方法を「おみち」といって伝えてきたわけですね。要するに、そういうプラットフォームのおこる場所、時間というような意味合いで捉えました。

◇出会ったときの挨拶

今日のお祭りの時に、斉藤宮司はこのように手をたたくということを行いました。古代の日本では、人と人が出会ったときに手をたたいて挨拶をしていたといわれています。そういう記録があります。人と人とのコミュニケーションの仕方が、人と神とのコミュニケーションの仕方になっているということなんですね。

今、世界中で手に関わる所作といえば、握手をしたり、インドとか仏教の方々は合掌したり、真言宗では印を組むというように様々あります。人と人が挨拶をするときに、日本では「こんにちは」、インドのベンガル語では「ノモシュスカール」、ヒンディー語では「ナマステ」という言葉があるのですが、相手に対して「あなたの魂が、あなた自身の上にありますように」という意志表明をするんですね。相手に良いことが起こるように、という祝祷ということをするわけですね。人と人との関係の中には、そのようなコミュニケーションの仕方があります。

◇生者と死者の関わり

一方、生きた方と亡くなった方、死者ですね。死者に対するそういったこともあるわけですね。鎮魂というのがあって、死者に対する鎮魂ということは、レクイエムという言い方がありますが、死というのは、途中で命というものが止まってしまうわけですね。もちろん、自然の寿命があって亡くなるということもありましょうけれども、戦争とか、飢餓、病、そういうことで命が途中で途絶えてしまうということに関わる苦しみや嘆き、やりたいことができない、挫折、あるいは残っている家族への無念の想いなど、そのような想いが沢山あるわけですね。

そういう想いに対して慰めるということが、死者と生者との関わりの中で起こってきます。ネアンデルタール人の骨が埋まっているところには大量の花粉がある。ということは、花で弔っていたのではないか、ということですね。

何万年とかいう単位の中で、我々は人類あるいは命というものを伝え、関わってきた想いですね。そのような想いをも含めて、鎮魂というようなものが、生者から死者に対する態度としてあるわけですね。古神道、特に白川は、天皇家や戦国大名、そういうところの祭祀の中で、鎮魂祭ということは主要な部分を占めています。それがたまたま鎮魂ということの中で・・・。

ついこの間、安倍首相が真珠湾に行くか、行かないかということになった時、あるディベートの会合にですね、Sさんが通訳で参加されたそうです。その議論では、僅差で負けてしまったそうですが・・・。ディベートをしたSさんの説明の中身が受け入れられて、安倍さんが鎮魂に行くということになったようです。そこで議論になった鎮魂というのはどういうことなのか、ということを今からSさんに話していただきたいと思います。機会があったら、白川の皆さんに話してもらいます。

◇敗者の存念を慰める

政治的な駆け引きということは別にして、日本の天皇、白川で鎮魂というのがあったというのは、日本の一つの特徴ですよね。争って、戦って敗れた人に対して丁重な扱いをした。その敗れた人達の悔しさやいたたまれない辛さの存念を慰めるということが、大事な天皇の仕事としてあったわけですね。

南朝・北朝のように天皇家が分かれて争った時期もありますが、その後ですね、統合した時には南朝の御神体と北朝の御神体、両方一番大切なものをですね、同時に宮中の賢所にお祀りしています。

日本の相撲では、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(とうまのけはや)が天皇の前で争うわけですね。一方は死んでしまいますが、その二人が相撲の神となっています。二項対立をしないわけです。負けた者には、自分たちの先祖と同等に丁寧に扱うということがあるわけです。

第二次世界大戦の時、フィリピンでは百万人以上亡くなっているわけですね。その時にお亡くなりになった方々をお慰めに行くというのが天皇陛下と皇后陛下の目的でございました。我々の仲間のMさんも、一年前からフィリピンに行って、鎮魂をされてきました。これは南太平洋でもそうです。

今回、真珠湾の亡くなった方々にですね、遺族の方々にも、政治的な駆け引きは別にして、お慰めするということすることになった。日本の文化の示し方みたいなものもあって、これはこれからも神道の中で大事な部分だと思っています。

◇死者への配慮

これらがコミュニケーションのプラットフォームの中で生者と死者、死者に対してどうやってコミュニケーションするかということの中身なんですね。そこは、神道が非常に大切にしているところです。

日本の歴史の中でも、チベットの歴史の中でも、死者の書があるんですけれども、そういう亡くなった方の一番身近な存在として捉えていくのが、日本の先祖の捉え方なんですね。遠津御祖神といって、神になっています。先祖が神になっていくわけです。それが死者に対しての配慮というか、日本神道の死者に対する態度として、よく分かる部分ではないのかと思います。

◇存在を認められる

生者と死者が、より良い関係で共存できるということを前提としたとき、生きている者が、亡くなった方から認めれる。自分の敵だった場合には、自分の好敵手というんですかね。その存在として認めるし、あるいは認め合うことなんですけれども。その上で、承認され、確認を受けて、そういう存在があるから、自分がある、そして存在していることに感謝するというそういう文化なんですね。そのあたりから神という存在に入り込むといいますか・・・。

ですから、自然も全て神といいますか、我々は時間と空間の中に存在して、自然の中に認められて生きている。そういう捉え方と、そのことによって、我々が、命が長らえるということに対する感謝ですね、そういうことに、繋がっていく。生きている者と亡くなった者とのコミュニケーション・プラットフォーム、それから自然とそこの中に生きる人間とのコミュニケーション・プラットフォームというのがアナロジーとして展開していくのが神道の一つの教えなんだということですね。

◇自然の働きによって

今度は自然、そして、人間、社会という中でのコミュニケーション・プラットフォームという考え方をしますと、人と人、人と自然という中にある、自然というものが一方では、非常にアナロジー的には人間との関わりの中で、人間の形をとるというかですね。自然神という形で、風の働き、水の働き、土の働き、金属の働き、木の働きとか、そういうものが自然の中の特徴的なものによって、人間が生かしていただけるという中身です。

例えば、水がなければ、乾いてしまいますし、食料がなければ、飢えてしまうわけですし、太陽がなければ、生きることさえできないわけですから。自然の働きによって、我々は存在している。そういうことに対して、承認と感謝といいますか、人間の自然の働きに対する態度というかですね、そのようなことが出てくるわけです。それを神と呼んでいる。だから、水の神、木の神、火の神、土の神、金の神と呼んで、尊崇するといいますか、働きに対してを垂れ、有難いことに感謝するということが起こるわけですね。

◇鎮魂

一方で鎮魂もそうですが、自然と人間の関係で、人間が自然に近づくという方法が、それがいわゆるメディテーションの部分の鎮魂ということですね。それによって、自然と共鳴するといいますか、自然の周波数といいますか、振動に人間が入り込んでいく。それによって、自然に親しく入り込んでいき、一体となる。そういう感覚を得るということです。その方法も様々な方法がありますが、自然という対立した存在としてではなく、自然の中に融合するような手法というのが鎮魂、あるいはメディテーションの鎮魂の部分ということがあるということですね。

◇自然との一体感

一つの共鳴する方法として考えたのが、動物の鳴き声ではありませんけども、言語を通じて、自然と仲良くする方法を考えたんですね。世界でも沢山の自然の音を人間が言葉にしていくという言語観ができてくる。オノマトペ、擬音、擬態語というかですね。それによって、川がどのような音なのか、風がどのような音なのか、ということを言葉にしていくということをしました。それによって、自然というものの、より親しい一体感というか、そういうものを味わおうとしたわけですね。その辺が日本の雅楽とかでは、一番良い楽器を持ってくるということも一方では起こりました。

◇お祓いの言葉、そして音

日本語というのは、自然と人間、生者と死者というような関係を、より良い言葉で繋げていくのですが、今日のお祓いの音というのはですね、一番自然に近いといいますか、人間を超えた存在に対してのコミュニケーション方法としての言葉と捉えてもいいと思います。

世界にはホーリーワードというものもありますけども。単調であるけれども、一つの音階でずっといって、一つひとつの音を同じような幅であげていくわけです。なぜそういうことになっているかというと、人間の感情を介さないで、そして、音階や情動によって変わらないような形をですね、自然のリズムの中に自分自身のあり様といいますか、そうあってほしいということを含めたことを表明しながら、言葉があがってくるといいますか・・・。

言葉というのは、はじめに言葉ありき、ではないですけども、言葉からはじまったということで、一音に対して、一つの意味を持ったということにして、そして、それを繋げていくようなですね、そういう非常にデジタルな発想をもって、言葉ができてくるというかですね。そういうことで神という存在と交流しようとした。そのような歴史がある。

◇日本語を学ぶ

日本語というのは、たぶん一万年を越えるくらいの非常に長い時間をかけていますけれども、非常に単純なようであるけれども、神とのコミュニケーションのための一つの言葉と、たぶん祓いの言葉というのがあると思います。

日本語というものを学んでいただいて、日本語脳という中で自然との、あるいは神とはどういうものなのかというところを掴む。そういう道がたぶん日本語の中にあるのではないかと。言語民族主義的にならないように、我々が考えていかないといけないですね。単なる道具としての、コミュニケーションの道具としてだけで見ると、そういうことになってしまいますが。そのあたりは難しいところでもあります。

少なくとも日本語でやっている人以外と、神とかですね、コミュニケーションを図るときには、非常に役に立つ言語ではないかということは思っています。

◇一音一音が神

日本では結局ですね、日本語の五十音ありますが、その五十音というのが、実は、一音一音が神であるというようなことを一六〇〇年くらい、そういうことが伝わっていた。これは珍しい言語だと思っています。日本語をいくら調べても、一体どこから来たものか分からないという不可解なところもあるんですけれども。

せっかく、日本に留学されて、日本語を学ぶ機会を得られた皆さんに、ちょこっとお伝えしますと、日本語というのは一音一音に神の名前がついているという珍しい言語のようです。もちろん、そうなりますと、五十音というものがですね、ギリシャ哲学でいうところの、イデアみたいな世界の話になってきまして、そういうようなところから、意識や意志や人間の思考というものが発生したと捉えてもいいのではないかと思う次第であります。荒唐無稽な部分でありますから、これ以上、いいませんけれども・・・。

◇せっかくだから役立てて

少なくとも、そういう日本文明、日本の天皇というものが神というか、古神道といいますか、そういうものによって、できあがった社会、縄文期から一五千年も続いている中身であり、持続可能社会が続いていく中身。日本の特性、あるいは天皇という特性、そして、古神道があるということ、少なくともそういう文明であります。それは今まで世界に問われたことはなかった。何なんだろうということを問うていただくということが、少なくとも人類の発展に寄与できればいいかな、というくらいの意味でありまして、何も強制するものではなく、もちろんカルトでも何でもないわけです。

皆さんがせっかく、日本に来られているので、日本に来たことを役に立てていただくための一つの支えにしていただければと思います。本当にこの短い期間でありましたけれども、皆様方に学んでいただいて嬉しく思います。

本当にありがとうございました。