0018話:2016年12月14日

柏手を打つということは、禅の世界でいうと、〝あっ〟というか、〝分かった〟というか、そういう意味合いですね。元々日本人は、出会ったときに手を叩いて挨拶していたそうですね。一致したということなんですね。白隠禅師(はくいんぜんし)ではないのですが、隻手(せきしゅ)の声というか、片手に音があるということまでいい出すわけですね。それは一つの悟りの世界を聞いているわけですけれども・・・。

我々も白鳥先生や大澤先生という当代の一流どころの方や、Iさんも母方父方ともに臨済宗と曹洞宗の禅の家なんですね。本来、彼も坊さんになるような人なんですね。Oさんもそういうのを勉強してきたのだけれども・・・。

◇一音一音が神

要するに、古事記からいきますと、一音一音が神であるわけですね、五十神、五十音が、一音一音全てが神だ、ということで暗号だったということですね。ということは、我々は神に向かって、神のことをするわけですから、一音一音が神であるという自覚にいたる、ということを高濱先生はいわれているわけですね。一音一音で神の世界に入るということ、それは「とほかみえみため」の「と」という音で神に一致するということ。もちろん、それがの呼吸というか、「あ」から「ん」まで、五十音全体が分かるということが、阿吽の呼吸ということになるんですけれども・・・。最初からそこまでいきません。

お祓いをあげているとき、何か分かったということが必ずあるわけですね。あっ、それは水の働きだから清まるんだ、ということが分かる場合もあれば、あっ、平らけく、とはこういうことかと分かるときもあるんですね。悟りの段階で、五十音が全て分かると良いわけですが・・・。最初は、一音が分かるだけでも良いわけです。「と」が分かってもいいし、「た」が分かってもいいし、「う」でもいいし、「お」でもいいんですけれども・・・。そういう母音が分かっても、子音が分かってもいいのですけれどもね。そういうものを一回一回の祓いの中で掴んでいくということを、ちょっとだけ心掛けると面白くなりますね。漫然とあげるということだけではなく、全体の文言でもって、清まったということでもいいのですけれどもね。

なぜ、白鳥先生や大澤先生がわざわざ月次祭にいらっしゃって下さるのかは、ここの活動が面白いからいらっしゃっているわけではなく、僕が拝見したところでは、お釈迦様の悟り、達磨さん以降の悟りですね。八十三代といわれるくらいの代々の悟りの世界を追求されている方々なわけです。日本語で、しかも一音が神だといっている我々の悟りは、一体どういうものなのかということを知っていただくというかですね。その部分に関しては、我々が端的に丁寧にお伝えしないといけないと思っています。人類が悟るということについて、悟りということを仏教的にだけいうのではなくて、これは一致するということなんですね。極と極が一致するということですから・・・。

◇鎮魂と太陽系の運行

我々は昔から天の文(ふみ)、地の文、人の文といって、知らせがあるという捉え方をしていたんですね。人の文というのは、それは一つの手紙として、知らせとしてある、ということを学んできたんですね。鎮魂の極意といいますか、太陽系は実は見事に鎮魂されているんですね。我々が行うこの鎮魂の作法と、太陽系の運行は同時共時なんですね。アナロジーといってもいいし、ほとんどフラクタルといってもいいくらい。こういう存在、宇宙というもの、太陽系がこういう存在で回転しているんですね。こういうふうに、一方向に、鎮魂作法の手のひらをまわす動作とか。

でも、全くですね、寸分違えることなく、何十億年も回るということはですね、力学的にはありえないんですね。それは回転の中に絶えず別のエネルギーが流入しているから、変わらない回転になるのです。そのエネルギーは見えないから、不思議に思っている。そのエネルギーがなければ、こんな均等に動くわけはない。どんどん曲がっていきますよ。ひどい楕円になっていく。ある程度、楕円にはなりますが、楕円にまた戻ってくるという技は、これはですね、太陽と地球の中心、太陽は真円ですよね。地球の中の鉄の玉は真円なんですね。この動きを示していると思うんですね。鎮魂作法の手のひらをまわす動作の逆方向にいく精魂のところが、エネルギー場としてあるんですね。

普通は四魂でいいんですね。神道は、普通は四魂になっているんですね。江戸時代でもそうですけれども。それが実は、五魂があって、それが一緒になって同じ力なんです。四魂と精魂が同等なエネルギー場をもって、拮抗しながら動いている。そういうものを天文といいます。その最初のところは、二次元平面かどうかは分かりませんが、中に重力がおこって振動する。そういうものがはじまりというかですね。素粒子とかそういうものがはじまっていくわけです。それも一つの二次元平面から同じことをやっているんですね、太陽系は。太陽系は全部、平面上に並んでいるんですね、惑星が。そんなのありえないんですね。神業なんです。これが太陽系の運行の構図というふうに捉えています。

鎮魂作法の手のひらをまわす動作のように反対の動作があるということが、これからの人類の科学の中から分かってくると思います。それで調整をするわけですね、四魂と精魂が。そういうことをすると。大祓の「やつはりにとりさして」は、太陽系の中心的な惑星の運行を八つに分けて、それが父なる存在になるということですね。そういう非常に繊細なものではないのかというふうに思いますけれども・・・。どのところをとってもいいんですけれど、水金地火木土天海ではないですが、五行に並べる方法もありますが・・・。そのように並べざるをえなかったので、そのように並べたんですね。父韻の振動数が、地球の五行の母音の振動数と重なり合って一致して巡る。

◇全ての中に悟りがある

悟りというものは、全てのものの中にあるんですね。一人ひとりの脳や皮膚表面の体感や、見るもの、聴くもの全てにあるわけですね。ということは、全ての機会の中で悟りが存在しているということですね。それを、ない、ないといって探すことは、水瓶座に入りますけれど、水中にあって、水を欲しがるような・・・。一杯になっているのに、まだ水が欲しいというようなのと等しいんですね。「ああ、そうか」ということが分かったら、それが初期の悟り。

仏教とかで、原罪やカルマということで、何回も生まれ変わるということをしないといけないと思い込むということの中身。それ以上、生まれ変わるということではなくて、ずっと生き通しに生きているということ。死ぬということは、移るということだけの話だということがはっきり分かるようになるということが、仏教における悟りの大事な部分ですね。地獄から抜け出るということの悟りの最初のところだけれども・・・。人間として十分に生きても、また同じ悟りを掴まなければいけないということになる。そこは、もう全てあるんだよ、ということで生きることですね。

◇無限地獄に落ちないように

それを端的に掴むためには、自分が発している言葉から、その一つひとつの言葉や出来事から、一音一音で掴むと、それが神を掴むということに繋がるんだと・・・。それが修行になる。これが言霊と白川と鎮魂ですね。鎮魂は一歩手前で見るという見方なんです。無になってしまうと全く分からなくなってしまう。無だけになっているわけではない。絶えず無から有がうまれ、創造が起こっているわけです。

その創造の最初の起点が、天之御中主神であり、鎮魂石。それを見ているということ。最初を見ているということ。無を見ているわけではない。無はいくらでも簡単に入れるんですけれども、その先の宇宙創造というものを見ていく。我々は、そこのところを根拠にした生き方なんです。破壊や無のところにだけに目標を置いていると、無限の、無の限りない地獄におちてしまう。無限地獄におちてしまいます。そこがポイントではないかと思います。

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