0025話:2016年12月26日

◇多くの一神教は、いわゆる人格神

昨日、ある経営コンサルタントの方がいらっしゃいました。OさんとIさんと共に話しました。元々、我々は企業のシステム構築を仕事として考えていました。コンピュータの中に入るソフトとしてやっているのですが、業種業態の経験をソフト化することですね。経営コンサルタントの業務経験や、その時の殺し文句といいますか、非常に上手な方だなぁ、と思いました。

話しながら感じたことは、今のコンピュータ社会が行き着く先の人工知能などで、ずっと問題になっているんですけれども、中身としては、結局、神観の違いというのがこれからハッキリと分かれてくるのではないか、ということです。人工知能というのは、人工の知能、人が作った知能ということですね。創ったという意味では、創造主のところが人間になってしまいますね。類推なのですけれども・・・。

そのことで気がついたことは、我々は多神教と一神教と分けていますが、一神と多神の中に、多くの一神教は、いわゆる人格神なんですね。人格神だから、人の心や形をとっている神がいて、それが宇宙を創造するというようなクリエイター、創り主なんですね。

結局、六千年あるいは三千年くらい、人類というのは、科学文明に与えた影響を含めて人格的一神教に帰結を見ようとしているわけですね。それが二〇四五年の人工知能ということなのだと思いますけれども・・・。どうもそれは人格神的な神という捉え方があると・・・。

◇はじめに成りませる神の名は

ところが、我々が学んできたものというのは、奈良先生も小笠原先生も高濱先生もそうですけれども、基本的には、多神教的な神という中には、一神教の創造神というような意味合いと、無神教的なニーチェ哲学の、神のないという神もいるというような概念まであるんですね。そういう観点からすると、我々がただ神と呼んでいるものがGODではなくて、白川から見ると、「はじめに成りませる神の名は」にあるように、最初に出てくる神様が「成った神様」なんですね。天之御中主神を創造した神ということはいわないわけですね。

だけども、ただ自動的に成ったという中には、大きな法のようなものがあるということですね。それを白川では、フトマニといっているわけですね。フトマニから生まれてくるのだけれども、それもまた一つの法則みたいなものが宇宙のはじまりにある。これは次元でいえば、一次元か、二次元か知りませんけれども、そういう中にあって生まれてくるわけですけれども・・・。

それもまた、法というものを限りなく考えればいくらでも、今の重力場でさえも、そういうものをなしとする物理学もあるわけですね。そういう理論も出てくる。ということは、まだまだ創造ということの中身、宇宙創造ということの中身を、それに○○○神として名前をつけるということをしないということは、その神観は役に立つということなんですね。そういう意味合いがあって、いつの時代でも白川の「おみち」というのは役に立つと捉えてもいいわけですね。

◇名前の無い神様

僕はある時期には、名前のない創造した神がいるのではないか、という言い方をしたこともあったんです。Sさんと二十五年前くらいにやっていた時は、そんなことをいっていました。甲府の北のほうには、名前のないホテルというのがありました(笑)。それっきり、あまりいわなくなりましたが・・・。名前をつけなければ、名前が無いということは「無いという神」ということなんですね。形を持った神が無いという神ですね。言葉でも、哲学でもそれはあるわけですね。それに基づいて、哲学も創られるから、共産主義のような哲学も創れるわけですね。無神論というか。そういう意味合いがあるので、日本の神々がはじめに成りませるといっていますが、その前の神のことはいっていない。ただ、造化三神というのがありますが、それはただ当てただけですね。近いことは近いと思いますが・・・。別天津神(ことあまつかみ)、五神もね。創造の三神と、あとの二神で・・・。それは身を隠したまえり、というわけですね。それを我々は別天津神と呼んでいます。この別天水も、登録商標になったようですけれども(笑)。そういう呼び方をすれば、それになる。それが言霊の原理でもあるんだけれども。

◇日本の奥ゆかしさ

冨巻さんという方がおられますが、また、冨士山までそうですが、上に点をつけない「冨」という字があります。一歩譲るというか、最高なものに対して、配慮するというものがいわずもがなというか、語らないということをしているわけですね。それが日本の奥ゆかしさでもあると思います。たぶん創造神というものについての意味合いを決していわなかったんですね。歴史の中で、ユダヤ教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、入ってきた時期があります。その何千年という歴史の中でも、一神という呼び方をしない。それに近い表現は、中国では、「太一」という言い方をしたこともあります。基本的には、創造のクリエイターのことを呼ばないわけですね。そういう言い方がある。だけれども、あるわけですね、最初のはじまりというのが。これを我々はフトマニというというところから学んでいるわけですね。今、だんだんと次元とか、階層知とか、マトリックスで考える考え方も定着してくると思いますが、その時には役に立つ考え方だと思います。

◇祝詞とは、平・安・清・明

我々も最初から全てのお祓いが完璧にできるというようなことではない部分が必ずあります。一つ大事な部分は、江戸時代からいわれていたのは、口祝詞(くちのりと)にならないということですね。口でただあげているだけ、心はずっと遠くにあるということではなくて、しっかりとあげていくと、毎回毎回、発見があります。そういう深いものが必ずあると思っています。ですから、毎回、同じようにあげて何の役に立つのかなということもあると思いますが、それは我々がお祓いの後、神を迎えていくということの中に本質があるといいますか・・・。

神というものを迎えるということは、それは自分の神であるのですが、また新しい発見の神というようなものが必ず毎回毎回どこかにある。それは一音一音の中にある。ヒフミヨイムナヤといっていますが、そういうものによって悟りのようなものを与えてくれるわけですね。

所作もそうですね。なぜ柏手を打つのかということもありますが、現代の次元論に変えれば、禅では一枚になるということをいうんですけれども。手と手が合掌というか、合わさるということをなぜ毎回毎回、やるのかということを考えたとき、最後は、本当に祝詞というのは平らけく、安らけく、清らけく、明らけく、という四つがあるだけなんですね。その瞬間の姿が柏手なのかなと。これは全部そこで平らけく、安らけく、清らけく、明らけく、という状態になるということですね。昔、日本人が柏手を打って、人と挨拶をしていたということですが、それはその四つの表現だということですね。そういう表現を、誠をもって行動していたことの証ですね。それは禅でいう一枚になるというか、合掌というか、そういうものと同じ意味合いだと思うんですね。我々は一つ叩くときに、平安清明と一体、次元でいえば、平面になっていく姿なのではないかと・・・。

そういうものを器の教えとしていますから、我々が白川の祓いにはじまり、祓いに終わるというときに迎える神の中身もありますが、迎え方にもそういう全ての極意が含まれています。白川の大祓も、「一二三」も、「とほかみ」も含まれている中で、そういう気持ちで毎日の祓いがあるということですね。ただ、綺麗にハーモニーができたということではなくて、その中で自分の人生における、あるいは、本来の悟りというようなものに近づく、納得できるような人生というようなものに自分を一つにしていくということが可能なのではないかと思っています。

今日も一日よろしくお願いいたします。