0030話:2017年01月06日

◇慢心の階層

瞬く間に日が経っていきますけれども、我々はとくに規制というか、こうしてはいけない、ああしてはいけないということが極めて少ない。会社ということで、社会的な一般的なものはありますけれども、白川は「慢心」してはいけない、という掟しかないわけですね。だからといって、それぞれ、学問、修行、宗教というものを終えてきて、人間の最後の行をするということでできている修行なんですね。ですから、そういう中で学問をするということ、あるいは、その教えをするということをですね、意識してやっていないとなかなか本質を掴むことが難しいところがあると思います。現代はそういう道徳の前提のところが様々なメディアとか、学ぶ機会があるからできるようになっている訳ですね。いくらでも学べるし、学んだことを前提として教えをまた皆さんにもお伝えしているわけです。

慢心の階層というのは非常に深く、情緒の世界でも非常に深い世界だと思います。端的にいえば、慢心ということは心にいっぱい何かが詰まっているということだと思います。それはある自分の考え方があって、それが満たしていて、他のことは特に気にならないというか、人がいっても直すわけではないということが起こってくるわけですね。白川にとって慢心ということは、いつも裏腹な問題なんです。天皇陛下のように神がいっぱいであればいいわけですが・・・。天皇陛下は二十四時間、神と一体となるという修行をして、大変な役割をしないといけないです。今の天皇陛下を拝見していると、まさにその通りだなと思います。

神を迎えるためには、慢心していると神は迎えることができない。慢心という霊の想いがあれば、神が入らないわけですね。自分の神であったり、先祖の神であったり、あるいは想いであったり、霊物というものであったりするわけですね。慢心ということは交感神経優位に思えますが、対象関係がなくなってしまうということなんですね。自分が全て、自分自身が自分の今の中でいいんだというところで生きてしまうと慢心ということに繋がるわけですね。だから、慢心してしまうと神は掴めないということになるということは覚えておいていただいてですね。足りない、足りるというところを超えていくということも大事なところです。それが悟りに繋がるのですが・・・。悟りというものと、慢心しないということは、そういう難しいレベルになるんですね。人の気持ちの制御というのは、深い世界があり、なかなか難しいというところがあります。ですから、一律に内容をいうわけにはいきませんが、悟りということは快・不快というところにあるものとは違う世界が慢心の中にある。差が分かりにくいんですね、慢心というものは。自分の中でどういう状態が慢心しているのかということが非常に分かりづらいということですね。昔は、白川では和論語というものがあり、それでもって、自分の情緒の状態をどういう状態かということを学ぶということがありました。そういうこともまた大変なことではありますが・・・。気が付きにくい情緒というものがあると思います。

◇一人ひとりが神という認識を持つ

その中で一番簡単な方法は、謙虚ということですね。易経では、地山謙という卦があります。謙虚でいるということが六十四卦の中にあります。人との対応の中で、一番大きなテーマが出てくると思います。子どもたちを見ていれば、ほとんど自分の心の赴くままですね。謙虚ということではないわけですね。大人になって学ぶべきことであるわけです。我々は少なくとも大人ですので、対人関係の中での、自分の位置関係というか、へりくだるという意味の謙虚さではなく、他者というものを優れた存在として見るということです。自分以外の全ての存在を優れたものとして見る。

アイヌでいうと、自分以外の全てのもの、入れ物でさえも優れていれば神といいます。当然、人間一人ひとりが自分以外は全て神としています。自分に何かいってくれたこと、あるいは、見せてくれたこと、自然な存在として今、目の前にあるということは自分にとって神なんだということですね。こうして皆さんと向かい合っているということは、私にしてみれば、全員が神、一人ひとりが神という認識を持たないと、とても謙虚な気持ちになれないわけですね。謙虚ということは、そのことが一日一度でもあればいいなと思うんですね。知らないことを我々は教えられるという立場になることがあります。

他者との関わりの中で、その人を瞬間でも神という存在、優れた存在として見る機会を持つことがあります。それは挨拶の中にもあると思います。はじめの挨拶と、別れるときの挨拶。帰り際の自分自身の相手に対する態度、昔は、迎えるときに柏手を打ったといいますが、そこまではいかなくても、帰り際には、本当にありがとうといいますか、神の存在として頭を下げるということは、人間として大事なところだと思います。そこのところは必ず実現するようにしているわけですが・・・。情緒の中での慢心ということでないということですね。瞬間に自分自身という、わかったように思っている自分自身を置いて、ほんの瞬間に相手の存在を認めて、その存在に対して、頭を下げるということがあると、それは慢心しないということにもなると思います。全ての存在に対して、ありがとう、感謝するということです。謙虚さと感謝は対になっているわけですね。今日、色々と教えてくれてありがとうとか、楽しいときを一緒に過ごしてくれてありがとうとか、感謝というものとセットになっていると思うんですね。それが、我々が慢心しないというところに繋がっているということですね。それが大事なこととして考えていただきたいなと感じました。

色んな行事の中で大変なこともあると思いますが、そのときほど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ではありませんが、自分自身がますます謙虚でいないといけません。ただ、卑下慢ではいけません。卑下して慢心するという二重の心のになる場合もありますので、慢心もしない、卑下慢にもならず、傲慢にもならずに・・・。これからの一年を謙虚な想いでもって、それは他者に自分よりすべてが優れた存在に対しての対応をしていかないといけません。

◇神を迎える祓いをあげていく

それは神としての存在、物でさえもそうなので、人が神ということが当たり前のことであるので、その中で、一つの儀礼として、一つひとつの礼を学んでいく。実は神様というのは思った瞬間にそこに存在するということだと思います。臨在といいますか・・・。ですから、祝殿に来て神様がいませんね、という霊能者が沢山います。そういう霊能者は、全て霊物を見ているんですね。霊物というのはどこにでも存在しています。そういうものを見て神と呼んでいます。僕は若い時から何百人、何千人という霊能者と付き合ってきました。そのことはよく分かります。神拝作法をした瞬間に、そこに神が臨在するんですね。迎えた中今にいるんですね、神は。永遠にもいるのですが、瞬間にもいるんですね。そういう迎え方なんですね。普段は、人間同士ですが、ある瞬間に、神として、その人を迎えるという技ができるようになると、その姿は必ず分かるんですね。その人が神を迎えているかどうかということが・・・。

私は若い頃、祓いの詞(ことば)でも、奈良先生は神様を迎える声というものがあるんです、といっていました。ですから、我々も神を迎える祓いをあげていくと、自ら調和し、自ら美しくなるという祓いに繋がっていくということになるんですね。なかなか神を迎えるという世界は難しい。とくに戦争を今までしてきましたが、武家の作法の中では、神を迎えるということをしてしまいますから、難しいですね。それでも尚、迎えさせていただくのが大祓の持つ力であるということです。今、我々が祓いを通じて神を迎えていく、そして、迎えながらこれからの社会に役立つ。神を迎えた者が世界に対して役立つということに繋がることだと思います。人間の技ではなく、神の技になるということが大事なところになります。

色々と一週間で思うところがございますけれども、また一年がいよいよはじまります。謙虚ということ、慢心しないということの中身、そして、感謝ということを一つのテーマにして、またお仕事をしていただければ有り難いかなと思いました。

今日はありがとうございました。

よろしくお願いします。