0068話:2017年02月24日

◇音の波と粒

みんな声を出しているわけだけれども、声というのは音波というか、波があるとすると、我々は光波と音波で色や形や見ているわけですね。音波と光波、聞くと見るという波の違いはありますけれども、音波にも光が波と粒とでなっているように、存在というものは、みんなそういうものでしょうけれども、きっと音も波と粒があるのではないのかと。粒というのは、光が観測された瞬間に、粒というものになるということで、音もみることにもなるわけですね。それはだいたいですね、音は口から水の泡のように出ますから、息がですね。言葉も一つの泡になって出てくる時の形が出来るわけですね。それが神代文字というのは、息の出てくる瞬間の形にしているわけですね。瞬間で観測しているものを形にしているわけですね。その音が粒というか、それを認識することで、存在を確定するということをやっているんですね。それはたぶん音の中身をですね。だから、一種のアナロジーかもしれませんが、光と音とが相似形というかですね。光も音も、波と粒というように。そういうようになっているのではないかと思っています。

◇太刀のしつらえ

昨日、白川学館でやる稀勢の里の太刀のしつらえを印傳屋に行き、社長とか伊藤さんと話しをしてまいりました。だいたい決まりました。全部、印傳で中身の太刀は隕石ですね。我々がこの間作った赤と黒のNigiの袋がありますが、あのような皮を「さや」として貼り付ける。そんな感じで、白川の白の模様を金具に入れて作ります。安土桃山時代の朱のような非常に綺麗な色ですね。糸はまたちょっと違っていますけれども、それも小さい白川の小紋にして皮で作ります。何メートルかあります。そういうものを作ります。だいたい決まりました。いよいよ今月、隕石に火をつけて、第一撃を稀勢の里が打ち、刀打ちが始まります。来月くらいには出来ます。そして、それに合わせて鞘を作っていきます。伊藤重光さんはこの二月に、伊勢神宮の御神体を作り終えて、次にこれになるんですけれども、金具は春日大社の金具を指導した人が作ります。そんなことで、次々に二月から色々と大騒ぎでやっておりますけれども。色んなことが始まりますということですね。

ちょうど、さっきの粒子の話ではないですが、俳句を昨日、やっていました。やはり五・七・五の17という数は、やはりイザナギ・イザナミというところでの中身が17あるというかですね。数から言うとですね。それが粒というか、粒子の始まりということは素粒子物理学でもありますけれども、きっとその辺の相似があるのかなと、昨日、俳句を考えていて思ったりしました。松尾芭蕉の一番代表的な「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句がありますね。我々は宇宙に向かって、意識、意志から音を出すわけですね。その場が、この創られた古い宇宙ですね。137億光年の宇宙、あるいは太陽系の47億年の古い、つまり「古池や」ですね。蛙はうるさい音の象徴ですね、心の中の蛙が鳴いていて、言葉が飛び出し、その先の水の音が観測されるというような。そのようなようなことを失礼ながら、お祓いをあげながら考えていたというか、感じていました。そんなことがありまして、お伝えしようかなと思いました。

◇宇宙の始まりを観測する

お祓いをあげるということが、お祓いをあげる前のフトマニというか、意志ですね。お祓いの音が出てくる、脳から声帯、そして口へと出てくる。そしてそれが確認されるというか、その瞬間のことに、何か哲学というか、技術というか、そういうものが含まれていて、それを我々が日本語として掴み取るというか、そういうことが可能であり、それが言霊であり、神を掴むことに繋がり、宇宙の始まりを観測するという鎮魂なんですね。つまり、宇宙の始まりを観測するという境地として捉えています。その3つを使って、日本哲学と言いますか、一つの宇宙創造ということを、そこから全てのエネルギーが出てくる源ですね。それを掴むことによって、きっとそれを手で掴めるかどうかということは問題ありますが、そういう意識というものの働きが、そのものの対象を掴むというか、そういう方法が文学で言えば、和歌であり、俳句であるのではないのか。

一昨日か昨日の続きの話ですね。

本日もどうぞよろしくお願いいたします。