0073話:2017年03月07日

おはようございます。

Iさん、何か報告か、気がついたことはありますか?

●Iさん

週末は鎮魂ライブがあり、その前も販売店さんの勉強会や、大型本体機のお話がありました。場の共鳴というところを強く自覚された方が、より自分自身の住まいですとか、場を整えたいということで、ロゴストロン100ですとか、大型本体機を購入されている方が増えています。そういう方が増えてくると、他の方にも同じような良い影響があると感じることがあります。

例えば、鎮魂ライブですと、共通の体験をし始めることがあるんですね。お話を聞いていると、前々回ですと、鎮魂石を見ていて、自分自身が吸い込まれるような感覚がしたという方が多かったり、静かになって静止して、時間が止まってしまったような感覚を感じました、という方が結構いらっしゃいました。体があちこち痛いという人が、私の拙い経験ですと、結構恐らく、鎮魂というのは気血水の巡りを良くするということを自分でも体感しています。強くなってきた段階で、例えば、経絡とかで何かのつまりがあったりすると、痛みとして感じたりするということがあるんだろうなということを感じます。気血水の巡りが良くなってくると、唾液が非常に湧いてくる。それがいわゆる、ずっと集団でやっていると、人によっては唾液がわいてきて、しょっちゅう溜まることが気になったり、飲んだ時にゴクンという音が気になったりということが起きたりします。

東洋医学の世界では、唾液を非常に大事にしています。私が東洋医学とか、気功を学んでいた時も、唾液を常に大津の津に液と書いて、津液(しんえき)と言います。それは気の源になるということで非常に大事にしています。その唾液を湧かす為に、服気辟穀法という気を食べる気功を行っていました。緑の光とか、白い光をイメージして、唾液と融合させ、肝臓なら肝臓に緑の光と唾液を一緒に届けたりして、10日間断食しても平気ということがあります。

鎮魂すると、気血水の巡りが非常に良くなるなと。それから、その時、喉が痛かったのですが、あとで気がついたのですが、舌を上あごにつけていると、喉の痛みが治まって、しょっちゅう口に溜まる唾液が気にならなくなりました。要するに、無くなってしまうというか。言霊学でも天の沼矛と言ったりするのは、元々個体的な地、肉体に意識が縛り付けられている。密教では、地水火風空なんて言いますが、地に縛り付けられている私の意識と、それに不随するエネルギーが液状になって、だんだん自由になって、それが空になっていくという過程が、粗雑な体な内部でも、鎮魂するに従って色々な滞りが流されてなくなっていくんだろうなという感じを、近頃、鎮魂をやったり、他の方の体験を聞いていると感じることがあります。それを早く整えてくれるのはロゴストロンかなと。

お話すると、要するに、ただお金がたまったりとか、目の前の世俗的なことに価値を見出している人とか、内側の向上向下と言いますが、それが上手くいっていなかったり、外側でも念を持って、目の前のお金を掴んでしまっている人は循環が現実世界でも上手くいっていないし、目の前の現実も上手くいっていなかったりしているようです。空虚感を感じていたりします。その辺をきちんとこちらが答えてあげると、結果としては、この前、ロゴストロンLで問い合わせを頂いた方ですが、やはり大型本体機を購入したいということを仰られました。祓い、鎮魂というところが、自分の人生のキーになるような気がするということを仰っていた方がいらっしゃいました。今の現代社会が答えを出せないことにきちんと答えを出しているのが、七沢研究所の今のメソッドかなと思ったこの一週間でした。

 

【七沢代表】

◇主体でも客体でもない存在の中に入る

ありがとうございました。

我々が鎮魂と言霊と白川というように分けて、みんな一つでも良いようなものをわざわざ分けているということもあるんですけれども。鎮魂とロゴストロンという捉え方をしてみると、あるいは、ロゴストロンとロゴストロンの中のソフトウェアとかです。

昨日、話題の中で、デジタルメディテーションはどう理解すればいいのかということが議論になっていました。鎮魂とメディテーションのどこが違うのかということもあったり、テーマとしては色々あります。大雑把に言って、鎮魂というものは一体、何を目指しているのかなと。色々あるんだけれども、健康にものすごく直結していたりするということは、ハッキリと世界的にも色々な研究があります。

一つ言っておきたいのは、鎮魂というものは、いわゆる主観というか、主体というか、私が座るというような、そういう文法的には主語というかね。日本語は主語がない言語だとも言われるけどね。古代語や日本語には、私というのは希薄だったという言い方もあるんですけれども。どうも鎮魂というのは、私という主体、主格、主を一度、下ろすというかね。一度置いて、自分自身が客体でもない、主体でもない存在の中に入るというかですね。そういう感覚を掴むということが大事なところかなと思います。

◇主体、主観、主語

これは掴み方で色々ありますので、あえては言いませんが、今、我々がロゴストロンという形でやっている中に書き込むソフトウェアとして、主体というものを明確にしようということも一方でありますね。主体というものを明確にするということの効果というものがもちろんあります。それはハッキリと一つの主観というものが、ある面では強制的なものなんですね。他者も強制するような中身であります。人は頭が痛くなるということもあれば、人が強い主観をもって、ある種の縛りをすると、相手は頭が痛くなるということになります。それがひどくなると、呪詛になったり、人を縛るということに繋がるんですけれどもね。

ロゴストロンの中にも、自己が自己を強制することになることが充分あり得るんですけれども。自己自身が自己自身で範囲を決めるということが、別の意味では必要なことでもあるわけですが、一方で、そういうことを決めないということの表現を主語というか、そういうものを使わないでやった時にはどうなるのかということはまだ実験していません。

そのあたりをこれからのソフトウェアを作る時の実験となってもいいのではないかなと思います。今日、たまたまそういう紙に書いて載せてみようかなと思った瞬間に、そんなことを思いました。どっちの方が効果があるんだろうかなと。前からテーマではありますが。

ある面では、曖昧さの中で一番良いものということも、その人の主観となりますからね、それも置いておいて主語のない文章を書いてみて、それがどういう風に働いたのかということを考えてみるわけですね。後で見るとか。そういう見方もこれからやってみても良いかなと。朝フッと思いました。

効果というものを誘導してくるという内容でもあるし、そういう主観、主体というものであると思うんですね。それに近いと思っているんだけれども、それを更に超えるような、それでいてこの宇宙の大原則にあったような、つまり神という存在に一番近いような、もし神の想いがあるとすれば、そういう想いで何か作れるものがあれば、それもまた一つの役割というか、開発方法かなということですね。そんなことを今日思いました。

これは今、一番我々がその世界でやっているのが鎮魂であるわけですから、鎮魂の効果を、よくIさんがあるんだと言われる時の、その効果というのは案外自我というか、自他という人格的なものを越えている場合が結構あるでしょ。そこがたぶん大きな書き方なのではないのか。

●Iさん

自分の意志を超えたところで、整い始めるということを気がついたらやっている、自動化されているというか、そういうことはしばしば鎮魂で起こります。自我を一旦、脇において鎮魂すると最適化されるというか、そのようなことをすごく感じますし、そのような体験が増えています。

【七沢代表】

そこにロゴストロンの効果や鎮魂の効果をデジタルメディテーションという新しい分野に進む時に、一番の効果というか、そういうことがあるということを伝えられるような、そういうことがあって、デジタルメディテーション事業をやったらいいのではないのかと。もちろん、それが鎮魂に帰り、ロゴストロンの事業にもなると。別天水もそういうことがあるかもしれませんけれどもね。そういうことも一回、みんなでもって考えてみましょうということですね。こういう何か新しいことをやる時に、色々と浮かぶことは大事にした方が良いのではないのかなと。

今までの時代と違う何か、いわゆる人工知能を超えたというものが新たにあるとすれば、それは何なのかと。それは枠を、要するに全て知の枠をはめるということがデジタルですよね。知の枠を外すというようなところから、もう一度考えるような発想ということをしていくというかね。それもまた人間の為ではないかと言われるかもしれませんが。しょうがないですね。それはそれとしてやると。それが必要な時かなと。それが新しいパラダイムシフトかもしれません。それが日本にあるのではないのかと。折角、一番古いものを、一番新しい神話知を、新しい時代に役立つようにやるということなのかなと感じました。

ありがとうございました。