0078話:2017年03月13日

◇天文(てんのふみ)、地文(ちのふみ)から学ぶ

今の時代というのは、非常に知の偏ったというか、人類が急激な知の量の増加というか、昔はアレキサンドリア図書館というような巨大なものもあったのでしょうけども。今は大量の情報や言葉が出てきているんですね。言語では、コンピューターの言語などもどんどん増えて、いっぱい広がっています。それに対応していかないといけないから、知が非常に発達していかないといけない。

神道というのは、天文(てんのふみ)・地文(ちのふみ)で言うと、天の運行から学びなさい、地の動きから学びなさいというか。そういうものから学びなさいというか。要するに、色々な智に働けば角が立つではないですが、そういう色々な問題が起こるから、直に掴むということですね。悟りもそうですね。直に自分で掴むということで。だから、天文・地文から太陽、あるいは月、あるいは星というか、そういうものの運行、働きというものから、人の生き方を自ら掴みなさいということですね。

もちろん、天文が非常に難しいところもあるし、大地の働きも難しいところもあります。なぜ、農業で色々なことを学べるかというと、地文、地球というものの文(便り)ですね、発している情報を掴む、そこに悟りというか、あるのですね。だから、五行の悟りが最初ですね。その内容が結局、神様の国津神というかね、あるいは五行の神の働きということを掴む為のものがあると。それが更には、前提に掴むというものではDNAというか、先祖というもので掴みなさいということで遠津御祖神というものがあります。順番があるんだけれども。もちろん、白川には全部あるんだけれども、地文を学ぶ時には農業というのは非常にやりやすいですね。自然の中で生きていく、悟るということが早く出来る、端的に出来るということがあります。

◇神の神を掴む

今は知の機械というか、我々は一番先端のことをやっているんだけれども、そこに矛盾が生じてくるんですね。神というものがその先にあるんですね。そういう神というものを掴むということですね。人工的に作った神を掴むということは、それは人間の神なんですね。やはり神の神を掴むということは、端的に直接、その神に至らないといけないという、ややこしいところがあります。

現代でそれをやろうとすると、至るところで知がぶつかってしまうというかですね。そういう問題が起きてくる。今の宗教もみんな人間が作ったものだから、それが何々教だ、何々教だとぶつかってしまうと。時代がきて良いものを作ったとしても、それはまた廃れるわけですね。人間が作ったものではない神を直に掴むことは出来ないかということですね。なぜ、古神道が万年単位で伝わっているのかと言うと、変わらないというか、掴み方が変わらない。直に神を掴むということなので、それは変わらないということですね。知識が働いていたのだとしても、それはあまり変わらない。

◇「知」はいらない

高濱浩先生のお姉さんにあたる方は、神代として、神と一体となって、神事を受ける方として育てられた方は一切の勉強をさせてもらえなかったと言っていましたね。まだ昭和の時代でも、勉強しなくていいということで。ネパールにもクマリという神の女の子も何も勉強させられないという子がいますが。その役割が終わってから勉強していくんですね。そういう役割の子がいるんですけどね。神を掴むということでは、悪く言うと「知」はいらないというかですね。そういうやり方をやっていたと。

その方の立ち振る舞いは、生前最初に行って、白川を教えてほしいとお願いした方なんですね。岡田米夫先生という、当時、神社本庁の教務部長さんに紹介されて、初めて八日市に行ったんですけど。その時は、全く普通の人ではないというか。かと言って、人間離れしているわけでもないと。そういう方が存在するわけですね。またそういう人がその世界を伝えてくれたということがあるわけで。だから、そのあたりの違いということですね。

◇直に神を掴む道

要するに、神道というものは直に神を掴むということを出来る道なんだと。しかもそれは一万年経っても、五千年経っても、千年経っても変わらないと。そういう中身があるんですね。そこに至るということは、仏教なんかはほとんど学問であったわけですね。学問の最後は、結局は真言や禅というようなものが残ったわけですね。

日本でもっとも発達した親鸞さんとか、日蓮さんという方のように。一音一音が真音ということは言霊、そして最後は南無妙法蓮華経となっていった。最後は日蓮さんも伊勢神宮の五十鈴宮で五十音にたどり着き、ひふみの最後は「のますあせえほれけ」、法蓮華(ほれけ)経という説もありますね。三音くらいになってしまうということもあるんですね。「南無」「妙法」「蓮華」それを縮めると「えほれけ」という風なお経の省略形ではないですけれども、そのような単純な音となると。

仏教は、白鳥さんや大澤さんという当代の一流どころの方が神道に関心をもって学びに来て下さっています。もう83代くらいの、長い歴史をそのまま法灯というものを伝えられたというのは何故かと言うと、禅というのは端的に悟りを掴むということの方法論ですよね。それが座禅や立禅、寝禅、歩行禅というような何でも禅になるんだけれども、座禅ということを中心にやったと。何をやったかというと、結局、無になることでしょ。それが仏教の一番進んだ学問としての最後の世界ですね。

◇無の先の空にたどり着く

そういうところで、我々は何をするかというと、鎮魂ですね。鎮魂というのは考えるということをやめるということ。言ってみれば、宇宙の始まりということの最初の創造の瞬間を掴みましょう、観想しましょうということですね。

今は色々な瞑想の世界がありますけれども、そういう風なことを言うわけですね。それも一つは、我々の中では言霊にしろ、鎮魂にしろ、白川というものに代表される神にしろ、非常に単純に出来ているわけですね。

今日、朝、お祓いをあげるということは単純以外の何者でもない。それは単純に全てを空というか、無の先の空というところにたどり着くということが、神の創造というところに繋がるということを言っているわけですね。だから、初めに出てきた神ということは、神様を創った神様というのは言われていないわけですね。天之御中主神と言っているけれども、それは初めに成りませる神様ということでやっているわけ。宇宙創造というところの全てをしたわけではないわけですね。それが後世になると、造化三神として、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神と当てているわけですね。僕は名前のない神様が宇宙創造をしたと言っていますが。

◇知識は瞬時に移転する

 この間、NHKのドラマで、名前の無い看板の喫茶店というものが出てきました。表札に名前が書いていない喫茶店を始めるということがありました。名前のないホテルというホテルがこの近くにありましたが、良いなと思ったのですが、やはり名前のないという名前になってしまうというかね(笑)言わずもがなということになるんですね。色々と難しいところがあるんですけれどもね。

端的に、知識というものも取り扱うということは、知識は瞬時に移転するということですね。今、地球に出来てきた知識というのは、アクセスするということもあるけれども、瞬時に我々に伝わっているんだということですね。そういうところ立たないと、永遠に知識を追いかけるというかですね。この循環に入ってしまうということが起こるということですね。

今、私なんかも、ずっと哲学ということで、宇宙というものは創造した神がいるだろうということがわかったのだけれども、それをどのように説明するかという哲学はやはりずっと知を使う神は永遠に神聖であり、今日理解するものと明日理解するものは全くですね。ある面では、その知に気がつくということになるんですね。またそれを哲学として体系化するということも出てくるかもしれません。今の段階では、システム哲学ということでありますが。それもまた知識の一部でもあると。

◇自分の手に移されてこそ学び

だけれども、我々は、知識はどうも脳が瞬時に移転する存在だと捉えています。なので、そこに根拠を置いて生きるということをしないと、ずっと知を探し求めていくというワンダリングと言いますか、知にさまよう人のようになっていくのではないのかと。そういう知を永遠に探るということも一つの地獄であるということですね。無限地獄と言うわけですね。そういうところに行ってしまう。だから、キリがないわけですね。

僕は一生勉強だと良く言いますが、それはそれで良いですが、それは知の使い方が絵になるというかですね、一枚に見える絵になる知恵というかですね、そういうものはあるかもしれない。知恵はあるかもしれませんが、知そのものを追っていくと、自己自身が永遠に追いかけてしまう。何かを学ぶということは、本当は瞬間に本来は分かってこなければいけないというか。自分の手に移されているんだということでないといけないと。

僕はコンピューターを始める時に、システム哲学を20代で学んだのですが、その時に考えたことはそのことだったんですね。知は瞬間に移転するということを根拠にして学ぶということにしたんですね。今はブロックチェーンの勉強に行くということもあるでしょ。それは既に瞬時に学んでいるということを前提に、あとは理解する為に学ぶという程度でいかないと、駄目なんですね。本来は、色んな将棋の手とか、コンピューター的に言うと、全て知っているというか、勝ちを知っているわけですね。一手打った瞬間に全てが分かるという世界もあるんですね。知でみれば、コンピューターが本当に完成された姿であれば終わりなんですね。ということは意味がないことなんですね。知として分かるということになってしまうんですね。

◇人間というのは遊ぶ存在

人間の定義をホモ・ルーデンスとすると、人間というのは遊ぶ存在なんだということになってしまうんですね。遊ぶということは、今の存在の中で言うと、一番の遊びは、神の神示を受けることで、芸術にしたり、技術にしたり、様々な発明にするところが一番楽しい部分ではないのかと思っています。そういうことがやれるような状態になれることが大事なのではないかなと。

我々には3つの教えが残っていて、どこから行っても、神のところにたどり着けるということであるから、これが一番良い方法だということになるわけですね。論理を単純にしてバンバン飛ばしていくとそういうことになる。そのことが今の時代にそういう発明や美というか、芸術に繋がれば、それは非常に良いのではないかなと。

僕はたまたま最初にロゴストンセンターの虹の階段、悟りの階段を見てきました。今まで全然行かなかったのに、急に行って、全部見てきました。あれは井坂さんの芸術の表出というか、光として見える、形として出来たものの姿であるわけですね。それをはっきりと行って、見てしまったというかですね。全体が非常に素晴らしいものであったなと。見えない世界の宇宙の、あるいは、神ですね。そこの土地の全体像も井坂さんが去年、伊勢神宮に行った時、啓示のように受けたそうです。そういうものが現実化するわけでしょ。そういうことが出来る人は良いけれども、我々も普段の中でそれはやっているんだということですね。

日々日々、生きるということはそういう生き方をしているんだと。自分の中で勝手にずっと同じものだと思いこんでいるだけで、そこは違うんだということですね。これが神の世界だと言うわけにはいかないわけですね。そこは審神者というのがいて、神代と審神者の関係の中で、確認するわけですね。それがないと、単なるスピリチュアリズムというか、神懸かりだけで終わってしまうんですね。それだけでは足りないということがあると。ということをしっかりと学んでいくと。一日の始まりの中に、そういう感覚があると。その中には、大祓だったり、古事記の神々の名前を読んだりするわけですけれども、そういうものの元のところに帰るというか、それが無であり、空であるというところを掴みながら行ける道であると。

◇神道が悟りへの簡便で超高速な一番の方法

ですから、神道が本当は悟りへの簡便で、超高速な、一番の方法なんですね。本質に至る一番すぐれた方法であるということは間違いないと思うんですけれども、そこに様々な倫理とかというものをくっつけると、教育勅語になってしまうわけですね。そうしてみんなに冷笑されるということもあるわけですね。笑われることなんて本来、何もないのですが、当たり前のことを言っているわけですからね。最後、国民総玉砕というところにもって行ってしまうからいけないと言われるわけです。そのことは言わずもがなというところがあって、本来は自分たちの生き方の中で表現するのがあの中身なんですね。

神道というものがそういうことを可能にしていたはずなのですが、知によって曲げられてしまったところがあると。賢しらなことを言ってしまったことで、当たり前のことが人間の技になってしまったというところが単なる人の道になってしまったわけですね。人の道ではなくて、我々は神道、神の道ということですね、おみちということは。それは人間が作った神ではないと。そのところを掴むということが我々の一番の願いであるというところから行けば、そんな分かったようなことなんか、はっきりと言って憲法の百何条を分かって実践している人は誰もいないわけですね。

今度は、我々は憲法第一条から考えてみようと、考えるというより掴んでみようということが始まったわけですね。それが11日のお祭りだったんですね。そのような中身で始まりましたということだったんですね。

時代があるから、知として学ぶ、知として掴むということは大事なんですけれども、端的な掴み方は直接掴むということ、この手で掴むということが出来れば、何もいらなくなるというかですね。いらなくても実践できるということが、一番ベースに隠れているんだということですね。それを自覚してやっていこうということが、我々の一番大切なところではないかと思っています。

今日もよろしくお願いいたします。