0079話:2017年03月15日

◇進化とは?進化が起こるということは?

我々は意識進化ということを旗印にしてやっているわけですけれども。意識進化ということは、進化ということ自体がどういうことなのか、進化が起こるということはどういうことなのか、というような細かい段階のメッシュみたいなものがどんなものなのかなというところがないと、指標に自分が今、そういう意識の進化が起こっているということが分からないわけですね。そのあたりのところはある程度、確認していかないといけないということであるわけですね。時間の中で時間が急に早くなったり、遅くなったりするというような意味ですよね。

進化ということは急激に速くなって、それが新しいパラダイムというか、位相というか、そういうものに変化していく。あるいは、階層が変わっていくというようなことになるわけですけれども。そういう時間が歪むというか、何というか、そういう現象が起きる時に、どんな精神の状態というようなことが起こるのかというか。それは丁度、日本人がなぜ、いわゆる季節があって、利用の仕方ですよね。季節というのは、ある面では、春一番が吹いて、風が吹いて、変化するとかいうのは一つの定番ではありますよね。

◇季節があると変化しやすい

僕は盛んに何回も言っているのは、

「梅が咲いたけれど、桜はまだかいな」

という言葉がいつも頭にこびり付いています。

今朝、水に差した桜の木の花が咲きだしました。ここに大きな桜の木があったのですが、それが咲くのは、水に差したものより後になって咲くんですよね。そんなことはどうでも良いのですが・・・。

要するに、大きな季節の転換点、今は四季とか、五季とか、言ったりしているのですが。実はその時、その時で呼吸法も違うということも前に話したことがあるかもしれませんが、武道では五季の呼吸はみんな分けられているんですね。五季というのは、春夏秋冬に加えて、土用というものがあります。たくさんの酸素を吸わないと、体が動かないというようなこともあるのかもしれませんけれども、そういう体的なことではなくてですね、今日はそういう季節があるということが一つの大きなメリハリというかですね、精神のメリハリがあってですね。そういう時に変化しやすいというかですね。その中身はどういうことなのかと言うと、普通、我々は進化するということは非常にフレキシビリティというか、融通無碍な心持ちでないと、進化できませんよということを言うんですよね。

◇守破離が意識の進化のときに起こる

進化する為の心がけみたいなものですね。実際、進化ということが起こる時にどんなことが起こるかということが分からないと、急に何か変わって、その対応を即座に直感で選んでいくことしかないんですね。少なくとも、そういう時に、一体、精神の中で何が起こるかというと、端的に言うと、全てのものは関係性が壊れたり、あるいは、離れていくというかですね。自分が今まで執着していたものから離れていくというかですね。ある面では、悟りが一つのそういう進化に繋がっているということは言えるんですけれども。ポイントは、離れるということに関しては、日本では守破離という、身を守り、そして次に、相手や自己自身を破り、そして、離れるというかですね。そういう、もしそれが人間関係だとしたら、そういう一つの人との別れがあったり、自己の中で、自己自身の体から魂が抜けるというような別れも、離れるという意味では出てくるかもしれません。それは非常に生と死という問題ではありますけれども、自分自身の中でそういう守破離が自分自身の意識の進化のときに起こるのは、やはり守破離というか、離れるということですね。

離れるということは、今までの自分で、人生とはこんなもんだと思っていたものが崩壊するというか、考え直すときが来る。それは人生には最低3回くらい来ます。それは人間の少年期から青年期とか、青年期から老年期とかですね。老年期から死とかですね。そういうようなことで、インドでは人生の中で、最後に隠居していくのを林住期と言います。

そういう自分の人生の転換点に立った時に、それは自分との一つの自分自身との別れみたいなものになりますね。定年して一回やめるということは、一つの仕事というカルマ・ヨーガを終わる時で、次に森に住むということをする時に、どういう風に気持ちが変化していくのかということですね。そういう変わり目であるということですね。その時には非常に懐かしいもの、慕っているもの、あるいは、こだわっているものから離れるというか、そういうことが起こるわけですね。

◇離れることが悟りでもある

もちろん、そういう人生においては、先ほど言ったように、最後はこの世から離れるわけですから、ある面では、そういうことが悟りでもあるわけですね。離れるということは、元に帰るという意味もありますね。元に帰る前に、我々がそういう意味の地上でもって何をするかということ、兆しがどう起こるかということが、みんな中々分からないところではないのかと。離れるというかですね。守破離の「離」ということが、非常に意味合いが大きくなるんですね。

ですから、特に、言葉で言ってますから、「知」というものからいくと、そういうことは何かということを、今、「知」を使って話をするわけですから、小賢しい話になるんですけれども。言ってみれば、「知」というもので、自分自身を武装している、思っている、あるいは、守っているものから、それを破って、丁度、脱皮と同じですね。

幼虫がサナギになって、サナギの時が一番硬くなるんですよね。その時、一番危ないから、一番硬くなるですね。それを破って、蝶になるんですね。そういう殻を破っていくということは、ある面では、自分自身が今まで一番守ってきた大事なものを脱ぎ捨てるということにもなるんですね。その時には、大事な時というか、危ない時でもあるということですね。我々はある面では祓いの時とか、鎮魂の時とか、一番無防備な時でもあるわけですよね。非常に攻撃的というか、破る時であるけれども、一方で無防備な状態でもあるから、家に結界を張って、その中でもって進化をするというかですね。そういうことに繋がってくると思うんですね。

◇諦観する、放念する

我々は、意識の進化の機械を持っているわけですが、そういう日々の中で進化を可能にしていくということがあるわけですね。そういう自分自身が、ある面では、自分自身の殻を破っていくということで起こることの辛さとか、分かってくれないというか、自分が孤独になるということが出てくるということですね。そこからとにかく離れないといけないけれども、瞬間の時に、今、そういう時期なんだなということを感じると、その時に初めて、離れるということが開始されるというかですね。それは瞬間で起こってくるわけですね。それは観念というか、言葉で言うと、諦観となりますね。そういう諦観するというか、あるいは、放念するというか。

普段、自己自身の姿というか、それを作っているわけですね。そういう思いを放念するという意味ですね。それが一つの起こるということになります。そして、その次の段階に行くと。意識進化が起こる時には少なくともそういうような過程を経て、全くある面では、新しい自己自身だと。

◇変わっていないという自覚を切る。

一方では、絶えず新しい自己自身なんだけれども、人間が記憶という事実で自分というものの存在を留め置くという技術を持っているから、変わっていないという自覚になるんです。瞬時に行われているから変わっていないと思うんですね。そういうものを切るというものが日本では日本刀となりますね。人間が記憶で自己というものを持続させているんですね。それを端的に瞬間に切ってしまうと、それがバラバラになっているものだということであれば、そこから離れるということなんです。自己がそういう一つのこれが自分だという、あるいは、それが自分の意識だということをずっと続けていくということをやっているわけですね。そういうものを散々人類は何とかしようとして、4000年くらい悟りというものが開けなくて苦労してきたところがあります。

◇「知」という知平に立って、そこを越えていく

今、ようやく科学のレベルで追いついてきて、命題として見えてきたということになってきたんですね。だから、我々はいつもそうですけれども、瞬間に受け取るんだということが、傍から見ると無鉄砲な方法だと思われているところもありました。我々は信仰ということを言っているわけではないけれども、そういう心のあり様というものがですね、全く違うというかですね、自分自身のあり得ないということを信じるということの心を掴むということも出来るわけだから、ある面では、「知」を越えたところで、自己自身の記憶という存続のものをバラバラにして掴めるようになっているんですね。それがきっと宗教というものが出てきた理由だと思うんですけれども。少なくとも我々は、今、「知」の地平というところに立って、決して論理的な矛盾や、科学的な真実というものは、どこまで真実か怪しいものもあるわけです。一番進んだものでも怪しいものもあると。

特に、進化学と言うものから見ると、確かに、あらゆる学問のスピードとか、速度は違っているから、それを上手く自己自身の中で、やはり合わせなければいけなくなるから、その分はやはり記憶というものを使ってしまうということになるわけですね。それはどうしようもないところがあるんですけれども。もう少し科学が進歩すると、それが変わっていきますけれども。少なくとも、この間の2023年の大変化の20年間が終わって、しばらく20年くらい人類が学ばないと、知的には進化しないので、あと25、6年はかかるのではないのかなと思うんですけれどね。皆さん、まだ記憶がしっかりとしていれば、学べば分かることは沢山あると思います。要するに、「知」という地平に立っているんだけれども、我々はそこを越えていく一つの方法論が実は、人生の中で何回かしか起こらないことを我々は今、毎日のように、お祓いと鎮魂と言霊とでやらして頂いているわけですね。

本来は、大祓は一年2回くらいしかあげなかったものですが、今は、我々は毎日のようにあげていると。一日3回くらいはいいよ、ということは言われてきたんですけれども。そのように時間は早まっていっている。綺麗に自分をゼロリセットする、ゼロ磁場に持っていくということが今の中で行われているわけですね。そういう方法の中で行われているわけですね。とにかく安全な状態で皆さんの意識の進化を行えるようにするということでいきたいものだと。精神の本当に健やかなうちに、危険なところをなるべく早く通り過ぎて、意識の進化をすると。意識の進化というのは一回だけではないということですね。たびたび起こるということですね。自己の人格というものを作った瞬間に破る対象なんだということを、中今の中で自己自身の意識の進化ということを考えるということになるわけですね。

◇新しい時代の「知」の使い方

もちろん、それは、脳の使い方もこれからは記憶に頼らないで、瞬間瞬間に全ての「知」がそこにあって、一番必要なものを選んでいくという世界に行けるような「知」の使い方をやったほうが良いのではないのかと。老人になると、沢山の忘れるということが起こる時に、それをより良い方向に変えるということは記憶というものは全てあるという前提に立って、いつでもその瞬間に選べるという記憶術というものに変えていくということがたぶん大事な新しい時代の「知」の使い方になるのではないのかなと。ほとんど物忘れが始まったら、はっきりと言って全然社会的にはあっちに行ってなさいと言われるくらいですね。たぶんそういうものがすべて整っているということを前提に、これから記憶というものを考えないといけないのではないのかということを感じております。

その辺も含めて、どんな時でもそういう進化を諦めないという意識と同時に、全ての一番良かったものを捨てていくという時の態度といいますか。

タゴールは、そういう時の自分の状態を詩で歌っています。

「あな、哀れ、記憶されきし数々の、かの懐かしき蓄えも、時きたりならばすべもなく、野辺に捨てるが定め」

ということを自覚していた人ですね。タゴールはアジアでノーベル賞を最初にもらった文学者です。そういう風な意識でもって、なお進化をしていく、諦めないと。そういう意識というものが非常に複雑な、相反するような心の状態であるけれども、そういうものも瞬間の中では構わないわけですね。

それが同時に存在するとなると矛盾になるわけですけれども。それは時間を自分の中でもって、タイムマシンですね、自由に変えていって、一つ一つをバラバラにして、また一つ一つを自分の人格として結びながらしていくと。それが自在に行われるということが意識進化の前提となるものではないかと。

少し小難しい話しになりましたが、昨日読んだ本で、今の時代は、「知」の、完全に「知」が忘れ去られたと。「知」で考えられないような状態に世界がなっているということが、この膨大な言葉と記憶の中身がある時に、今の社会がそうであると言われているのですね。自分たちもそういうことになってはいけないというか、そのようなことを思いながら、一方では、それを超える道を考えることが大切ではないのかと思い、こんなことを言わせていただきました。

どうぞよろしくお願いいたします。