0080話:2017年03月16日

◇神を迎えるプロ

昨日、祝殿講習を行いました。我々は何を目指すかというと、やはりプロなんですね。何のプロかというと、神を迎えるプロですね。神というものは、人が作った神もあれば、宇宙を創った存在としての神もいます。日本の神というのは、様々な呼び方があります。国津神、天津神、遠津御祖神、始まりは造化三神と呼ぶ神もあります。様々な神があるわけですね。もちろん、それを一つ一つ迎えていくというかですね。そういうプロですね。

NHKのプロフェッショナルという番組がありますが、時々見るんですけれどもね。自分は一体何のプロかと考えた時、もちろん、それぞれの仕事の中でのプロになった方を紹介するわけですね。人間が本気で、本気で生きると言うのもおかしいけれども、世間でよく言われているのは手に職をつけるということを言われていますね。手に職をつけるとは、一つの職業を見出すという意味だと思うんですね。その人が一つの生き方、職業を見出す。大きな広い意味の公人とか、あるいは、医者とか、先生とか、公務員とかという色々な名前があるけれども、要するに、自分の一番、誰にもできない先端というかですね、誰にも負けないということが手に職をつけるということの究極の姿ですね。それで生きていくことが保証されるわけですね、人間社会で。動物の世界や自然の中では、また違う強さが必要になるかもしれませんけれども。

基本的に、今我々がこの段階において、少なくとも毎日のようにお祓いをあげるんだったら、お祓いのプロになるというか。お祓いのプロになるということが神を迎えるプロになるということですね。とてつもない野心かもしれませんけれども。

◇自己自身で生きられる、という決意をしてやっていく

僕は誰にも精神を支配されたくないということを若い時から思っていました。支配するということもしないけれども、支配されたくもない。社会というのは大きなヒエラルキーというか、要するに、支配の一つの体系になっているわけですけども。とにかく支配されたくなかったです。お金にも、食事にも左右されたくない。20代から何日間でも何も食べない、断食行をやりました。4日くらいで水も飲まないと死にそうになるんですね。5日目に水を少し飲んで、何とか生き残ったということもありました。たぶん水を飲んでいたら40日くらい生きられるのだと思います。

死というものに人間が左右されるとしたら、死んだ人間が生き返るじゃないかという、そういう死返玉(まかるがえしのたま)という呪術があるということを知ったのですが。そういうことも知らずにやってみたんですね。千日回峰行となると、一日30kmとか、ある時は80kmとか歩くわけです。千日間回ると。そのようなことが、昭和になって、酒井さんが大切にしたんですけれども。そういう強靭な肉体の上にさらに、強靭な精神が大切となります。精神がとてつもなく強くないと、拷問されて簡単に言うことを聞いてしまうということもあるわけですが。それは精神のところに根拠が出てきて、それでこういうもので回避できるかどうかが決まるわけですけれども。

いわゆる、精神的にも、肉体的にも、社会的にも、自分がプロフェッショナルになるというかですね。手に職をつけて、プロフェッショナルになるということが、一生生きていくということにおいては、ちょっと足りないんですね。誰かに保護されるということにもなりかねない。年をとれば仕方ないことではありますが。自己自身で生きられるということをするということをそれぞれが決意してやっていくということだと思うんですね。

◇差別(しゃべつ)

例えば、仕事でもこれからどんどん人工知能などが出てくると、人間のやる仕事はどんどん減っていくわけですね。そこで一番言われたのは、人を少なくするということが、あんたの一番いけないところだと当時の通産省の役人の方に言われました。人が要らなくなる。自分の仕事がなくなるんですね。人工知能もどんどん進歩していく。ある面では、我々はそういうものを抱えながら生きているわけですけれども。ではそれでも、その先の尚自分がですね、定職というものをつけて、人間として一生送れるかというと、楽しく、芸術的に生きられるかというと、やはり考えないといけないわけですね。

その一つのヒントというのが、仏教で言う差別(しゃべつ)ですね。仏の前では、それぞれ違う能力で、全く違うものをもって、この世に存在していて、それに気がつくというのが、自分のそれが天職ということに繋がると思うんですね。今、みんな同じような職があると思っていますけれども、少なくとも自分自身が一番楽しく、広い世界というものを掴むということが出来れば、一番良いのではないかということがあって。それは結局、仏を迎える、あるいは、神を迎えて初めて知ることが出来るのではないのかと。そういう中身なのではないのかと。自分が神を迎えて、初めて一つの違いを知り、自分の才能というのか、あるいは、本来の生きる目的に目覚めると。そういうものが掴めるわけですね。

ですから、最終的な自分の道を求めて、そして、手に職をつけて、一生を生きるということは、仏教でも良いのですけれども、神を迎えて、その上で、自分を見つめるということ、そして、それを知ることが大事なことではないのかと。

神を迎える、あるいは仏を迎えて、自分を自覚するということが本当の意味の知の極地だと思うんですね。それはある点、そういう能力というものを開発するようなことが意識的には必要ですね。それが、その能力を開発することに繋がると。必ずそういうところに、その為にも、おみちというものがあるんですね。そういうプロフェッショナルな道になる為の一つの段階としてあるんだということですね。そのことを、みんなそれぞれが若干ずつ違う命というものをみんなが持っている。人の命運とか、運命というものを越えて生きるというか。それを確認することだと思うんですね。

◇次の段階にいくとき

自分はこうして生きるんだ、ということが腑に落ちると、自分が次の段階にいけますね。自分がどんな働きが出来るかを分かった時に、次の段階に行くと。その時が腑に落ちる時だと思うんですね。腑に落ちるということを覚悟するというか、その自覚をすれば、それはそれで一つの解決になろうかと思います。

ここのところは、人生の問題で、一番難しいところであるけれども、そこを解決しようという志というか、意志を発していくことが大切。その為に、神を迎えると。その為には、神を迎えないと分からないわけですね。これはいくら考えても出来ない。宇宙創造の源で、我々が創造されたということを理解しないといけないというか。そこは神に帰るしかないんですね。そこがポイントですね。それを少なくともシステム的に行えるように、このおみちというのがなっているからですね。言霊と鎮魂とおみちというもので、必ず非常に短縮されて、しかも得られるということが、僕は証明できていると思っています。これから皆さんが掴んで頂くということを一緒に始めましょうと、本当のプロフェッショナルになりましょうということですね。

本日もありがとうございました。