0083話:2017年03月21日

何かご質問はありますか?

●Aさん

賢治先生が色々な事業でもそうですし、人生でもそうですし、そういうものをどんな基準で決めているんでしょうか。

 

【七沢代表】

普段、全然考えていないですね(笑)。その時に、スラッと出てくると。神代と審神者と同じだから、言ったら判るということですかね。その時のみんなの気持ちを代弁しているとも、していないとも、だから勝手かもしれないですね。他の人の心の中で思っていることと、また別ものかもしれない。私とAさんの今の問答ではなくて、もちろん、全員の関わりがあることになるでしょう。そういう問題は非常に難しいから考えると、あの人はどうだろうと考えて出てきたのが、多数決のようなものですね。みんなが良ければ良いだろうと。

◇イソノミヤの理想形

今の民主主義は、過渡期のものですよね。みんなにとって理想のことは、誰も支配しないということに尽きるのですが、言葉が一番支配するんですね。その言葉によって、影響されるわけですね。本当は無言の内にやりましょうと出来れば良いわけです。その時に、コミュニケーションプラットフォームで、瞬時にテレパシーのように伝わらないと、無言のうちに「よし、やろう」ということにならないわけですね。昔は、そういうものは円形になって、みんながそうだ!と思えるまで待っていたと思うんですよ。

もし、イソノミヤの理想形をどういう風に考えるかということもテーマではあるけれどもね。もしそういうことがあるとしたら、周りで黙って待っていると。俗にそのような方法は今でもいくつもありますよね。ヤマギシズムとかね。三日間黙って、こたつに当たったりして、何も言わない。無言の行もその一つですけれどもね。それは宗教の世界、カソリックにもあります。仏教の中にもあると。ですが、そういう方法というのは時間がかかるわけですね。

◇機械から学ぶ

でも我々は、テレパシー言語を発達させようとして、音の出ない機械を開発して、音の出ない機械で自分がまず交流してみるんだと。人と人、人と機械、さらに人と神、人と自然とか、一対多というかね。その対応関係が、一の場合もあれば、複数の場合もありますね。人類の中で、そこら辺はまだ解明されていないんですよ。一対多という関係の法則が出来ていないというか。それは実践の中でも、まだ出来ていないから、それを我々はやっていこうとしているわけですね。コンピューターというものが発達したことによって、機械の力を借りるという発想で作りました。要するに、コンピューターがあるということによって、この70年、80年で人類にもたらされた装置というものが注目されています。人工知能とか。

今度、囲碁の名人と囲碁ソフトとの対決する大会があるようです。囲碁のトッププロが、囲碁ソフトから学んでいるということになりますね。一番最後の砦だったんですね。人間の知性の砦が囲碁だったと。いよいよコンピューターが近くまで来ちゃったと。機械から学ぶということなんですね。それを我々は今、無言の周波数から脳が進化できるのではないかと工夫している中身ですね。

◇日本の漫才も神道から来た

話しを元に戻すと、質問したら全員の中で、きっと代表して、言っているということなんですね。社会に見立てて、あるいは、公というものに見立てて、一人ひとりが今日言った質問でも、皆でそうだな、と思った時に答えが出てくるわけだから。そういう僅かな時間があって、それを自覚させてくれるのではないかと。それを音波でやっているんだけれどもね。

日本の漫才も本当は神道から来たんだけれども、今はボケとツッコミとなって、1970年代頃にその方法が出てきたんだということだけれども、その方法は非常に賢い方法だったということですね。物事の本質を引き出すのに良い方法として、その方法があったわけですね。2人以上の漫才になると、動作が入ってきて、その面白さでもって、人を引きつけるという方法だけれども、二人だと話術しか本来はないわけですね。そこで起こることは、一対一の言葉。

それが昔だと、旋頭歌や長歌のようなものになるわけですね。だから、これから質問をしてもらおうということで、そして、答えようと思っていましたので、そういう機会が私の欲求とそういう願いが絡み合うと、一対一が、一対多になって、そして、より良い自分の学びというかですね。

自分の事として聞きたくない場合は、

「こういう人がいるんですけれども、どうしたら良いですか」

と聞けばいいんですね。

それと同じように、みんな聞けないことや言いにくいことがあっても、一対一でなくて、一対多の関係にして、話をするということをしていくわけですね。それは大切な技術かもしれませんね。

◇嫌なことは考えない、となると、だんだん硬化していく

質問して答えるということは、とても良いことだと思っています。そういう、来た時に、言ってくれないと、いちいち全部、私はお見通しでやっているわけではないので、全然大丈夫ですよ。僕は一度、若い時に、あなたは足の裏を見る人だから嫌だ、と言われたことがありました。それっきり、なるべく人のことを見ないようにするということを努力していったら、脳軟化ではないけれども(笑) 交流できなくなるわけですね。意識がないと、人とは交流できない。嫌なことは考えないということになると、だんだん硬化していきますね。

例えば、学校の先生でも、自分の言うことを聞いてくれないとした時に、必ず、例えば30人の中で聞いてくれない子が何人もいるわけですね。そこで、聞いてくれなくても良いから、とにかく話すということをやって、30年、40年経つと、その人は先生を辞めた途端に脳軟化になります。僕は人のことを分かり過ぎるくらい分かるということを勝手に思ったわけですね。分かってくれないならば、言っても仕方がないとなると、途端に全然考えなくなる。一方通行になってしまう。自己の中にいる自己と話をするような、自己内対話の中で自己意識が進んでいってしまう。そして、人の話を聞けなくなってしまいました。それで非常に悩んで、30代の初めに臨床心理を学びました。来談者中心療法というのを20年くらいやったんですね。「聞」くということから、「聴」き入るという、そういう聴くということを練習しなければならなくなってしまいました。今、かろうじて、人のことを聞けて、脳軟化しなくて生きていけるわけですね。聴く練習をしたから。

毎日のお祓いで、人の声を聞きなさいと、聞きながらやっているわけですから、最近は皆さんの声がすぐに一対多という関係の中で出来るようになったという経緯があるのではないかと。毎回毎回違うけれども、流れがあるわけですね。そのハーモニーのようなものがあるわけですね。瞬間瞬間に合わせられるわけだから。合ってくるんですね。非常に速いからね。非常に心地よいというか、合ってくると、すごいエネルギーというか、願っているエネルギーが実現していくということが起こるのではないのかなと。

これはそういう意味の一対二十が一対一の関係になってくるというかね。一対多というのは複雑過ぎて解けないわけですね。一対多から一対一に変わるというのは、ひとつの形とか、リズムとかがあるわけですね。そういうもので見ていくという方法が、まだ囲碁の中には取り入れられていない。

今はインテグレートなんですね。統合する感覚を機械に取り入れようとしているんですね。機械は情緒がないから出来るんですね。その時に、たぶん図形というか、全体を1枚の絵図にした展開があると思います。それを作っていくと囲碁のソフトが変わるのではないのかと。そんなことを感じました。

ありがとうございました。