0099話:2017年04月17日

◇教育勅語も大祓も、同じ公の表現

少し言いづらいこともありますが、日本という存在が民族的に、あるいは国として生き残る為というか、世界が今、このような状況になって、それぞれ生き残りをかけてやっています。そういう中で、日本の中からも外からも、日本の存続をかけた高まりを出すと、それを叩くという、非常に古風な方法というか、戦術があるのですが、それにどうも今回も引っかかっているのではないかなと感じますね。

要するに、特に教育勅語が云々かんぬんということがあって、みんな誰が教育勅語を本当に読んだかどうかというと、みんなも文語体で出来ているので読んでいないと思うんですね。口語体に訳したものを入れますので読んで頂きたいと思います。

要するに、大したことがないと言うと失礼ですが、我々が普段やっていることが書かれているということだけなんですけれどもね。それは先祖とか、先祖の神を迎えるということも、我々が普段やっていることだけれども、神というか、先祖を大事にするというかですね、みんなで仲良くしましょうとか、要するに公の為に生きましょうね、ということですね。

一番のポイントとなっているのは、国家や民族が緊急の場合にはどうするのか、みんなでもって守りましょうね、ということが書かれていて、その部分だけが逆に問題になっているわけですね、今の批判のあるところですね。夫婦愛睦まじくとかですね、朋友仲良くとかですね、そのことは言わないんですね。当たり前ですから。

一番のポイントは、国にもし何かあれば、誰も国の為には動かないでいなさい、とする為に、動かさない為の一つの方便として、そういう風な表現になってしまうんですね、反対の方から見ると。それは滑稽な話で、今さら腹を立ててもしょうがないのですが、多分みんな知らないのではないのかなと、口語訳を。だから、それを読んで頂ければ納得していただけると思います。

明治天皇が言われたという形になっていますけれど、これは天皇のお立場からしてみますと、ごく当たり前のことなわけですね。公というものの為に生きるということが一番楽しくて、それが一番の人間の目的ですね。

結局、政治が公ということを言うと、必ず政治をする側の人間が私的に使うことによって、公というものが駄目になる、という世界中、同じパターンですね。近々では中国でもそうだし、もちろん日本もそうだったし、そういう風なことになるんですね。

大祓も結局は公の表現なんですね。それは元々、天皇が神事を受けた内容なんですね。ですから神との約束みたいなものであって、神ということは民族にとってももちろんそうですけれども、公に違いないわけですね。みんなが幸せになる為、あるいは清まる為の中身であるわけですね。その為に祓いをやっていますから、祓いや大祓をやっていると公ということが当たり前になってきて、それが楽しいことになりますね。

◇公をやるというテーマのもと、集まってくださっている

ワープの人たちが今回は社会問題がテーマで、200名以上の方が集まってくださったわけですが、僕が非常に感心するのは、少なくとも公というものをやりませんか、ということで集まって下さっているわけですね。もちろん、それが即、公ということではないし、また個人の生きる道ということを探すということの中での公かもしれないけれども、そういうことを表明して一緒にやろうということで、半年間の講座を受けてくださっているのは非常に貴重なことだと思っています。だから、一番大事にしていて、ワープの人たちに一番新しい情報や開発していることを伝えなさいということを言っているんですね。ですから、非常に沢山の人達がロゴストロンを使って頂けるわけですけれども、そういうことは本当にあり得ないことだと思うんですね。もちろん、白川学館の門人としていらっしゃって頂いている方は、もっと更に進んだお気持ちであるわけですけれども。

そのあたりを十分に、我々も作戦に引っかからないように行く必要があるのではないのかと思います。我々は即、色々と言われかねない内容で、非難する理由で、我々は◯◯会議である、というフェイク情報を言う方がいるようで、非常にビックリしました。そういう風なことを言い募ることを通じて、印象操作をする人もいるから無理にいや違います、という必要はないですが、そういう作戦に引っかからないようにした方が良いかなということを感じました。

とりあえず、教育勅語の口語訳を読めば、何の問題もないということがよく分かります。そんなことは道徳以前の問題だと思います。是非、読んで頂ければと思いました。

今日はどうぞよろしくお願いいたします。

 

【教育勅語の全文通釈】

朕がおもうに、我がご祖先の方々が国をおはじめになったことは、極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、また、我が臣民は、よく忠に励みよく孝を尽くし、国中のすべての者が皆心を一つにして代々美風をつくりあげて来た。

これは我が国柄の精髄であって、教育のもとづくところも、また、実にここにある。汝臣民は、父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲良くし、夫婦は互にむつみあい、朋友互いに信義をもって交わり、へりくだって気ままの振るまいをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って、知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め、世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を初め諸々の法令を尊重遵守(じゅんしゅ)し、万一危急の大事が起ったならば、大義にもとづいて勇気をふるい、一身を捧げて皇室国家のためにつくせ。

こうして、神勅のまにまに天地とともに、窮(きわま)りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄(みさかえ)をたすけ奉れ。このようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの、祖先の残した美風をはっきりあらわすことになる。

ここに示した道は、実に我がご祖先のお残しになった御訓(おおしえ)であって、皇祖皇宗の子孫たる者および臣民たる者が、ともに従い守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、また我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。

朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得、実践することを切に望む。

(一九三〇年に文部省図書局から出された解釈を現代仮名遣いに直した。社会評論社の「君は教育勅語を知っているのか−『神の国』の記憶」より)

◇教育勅語論議について(能澤さん)

これは昨今、政官界、教育界などで、再評価気運の中にあるようです。憲法改正などとの連動もありましょう。ともかく、戦後70年、国が打ち出す精神規範の物語が無かったことの証しとも申せましょうか。かつ、現代が人々に思われている以上に、時代危機であるとの証しかもしれません。この時代要請性は察しておくべきでありましょう。暗唱し得る程の量でありつつ、かつある部分で、決定的に垂直に降る言葉を学んだ物語であると申せましょうか。戦後近代における「物語性のモデル」として受け取り得ると存じます。