0108話:2017年04月29日

◇白川謝恩奉告祭・白川伯王家廬山寺墓前祭 代表挨拶 その1

今、白川学館としては年祭を中心として、白川学館における祭祀と言いますか、そういうものを体系化するというとおかしいですけれども、年間における祭りと臨時祭を含めて、体系化というか、日程をしっかりと決めてやっていかなければいけないということで集大成をやっております。

歴代の伝統と言いますか、我々はその中では、出雲の祭祀の伝統も引き受けて至っているわけでありますけれども。画期的な、と言いますか、大和王権といいますか、奈良の地で行われていた時からですね、京都の王城の地であった時、そして、今、東京で150年間と言うことで画期があるわけですね。特に白川家では、これは丁度、京都の祭祀と言いますか、完成したのはその時代ですね。すなわち、桓武天皇50代から121代の明治天皇のお父様である孝明天皇までの間の、白川家の伝統というものが、今日、墓前祭の廬山寺に祀られている30代までの白川伯王家の方々がですね、明治以降は有りませんが、祀られているわけですね。

そういう伝統と言いますか、丁度、明治4年の大嘗祭以降は、白川での神祇官としての役割が無くなってしまうんですね。それは丁度、都が変わってしまうのと同じように変わっていくわけですね。そういうことはありましたけれども、伝統として受け継がれたものは、まさに800年間の伝統があるわけですね。

それは今回、大本山廬山寺のですね、これは天台宗です。今回、分かったのですが、ここの町田管長は、非常に有名な南画の会長であったり、もちろん、紫式部の顕彰会の会長でもあるのですけれども。水墨画の第一人者だったんですね。この方に27日の墓前祭をやって頂きました。もちろん、天皇の御陵もありますから、宮内庁の方々は神道でもってお祭りをされているわけですが、我々も神道でやってよろしいということになったのですけれども、初めてのことでもありますし、まず町田管長がやってくださるということになりましたので、お願いしました。町田管長は素晴らしい能力者でありました。本当に軽いタッチのお経でありましたけれども、瞬時にお墓の気と言いますか、瞬間に慰霊されていく様子を拝見できまして、非常に心地よかったです。失礼な言い方ですけれども、流石だなぁと思いました。

天台宗というのは、仏教の中でも、日本の一番の根本の、伝統であり、最澄さんがはじめたと言われますけれども、仏教の伝統を引き継いだものであるわけですね。丁度、空海と同じ頃、真言宗と同じ頃、比叡山に祀られることになったわけですね。両者とも遣唐使として、最後の頃の中国の長安の影響を受けた方でもあります。ですから、当然、密教ですね。密教と法華経と浄土宗の影響もありまして、天台宗の元のような教えをされていて、鴨川の近くに堤中納言という方がおられたのですが、その方のお屋敷が、紫式部が源氏物語を書いた場所であるということでした。その庭もありました。そこで廬山寺というのが出来るんですね。本当に御所の真ん前でした。白川学館は、一般社団法人ですけれども、白川学館ということでお寺にお尋ね頂くと、多分、丁重にもてなして頂けるのではないかと、お茶が出るかどうかはわかりませんけれども(笑)。

我々の白川(家)学館から白川学館という流れを、非常に理解して頂いて、今は飯野家と、江戸時代に分かれた白川家の子孫の方々が来られるということでありますけれども。我々は毎週のように行っていますから、管長さんとは馴染みになっています。非常に親しくさせて頂いています。これは、たまたま一昨日も一緒に行って頂いたのですけれども、京都府議の方がOさんと親しく、市会議員の方の紹介で、廬山寺の管長さんと引き合わせて頂きました。白川学館を親しく受け入れて頂いて、この白川学館こそ、白川伯王家の伝統を担う人たちであるということをしっかりと認めて頂いたと思います。

私が20代の頃に関わった方が、白川家の系譜を調べたことがありまして、その時の成果もですね、系図の中に取り入れられていました。やはり、歴史ある廬山寺は、しっかりとそこに埋葬されている方々の歴史も調べていらっしゃるんですね。今回行って、IさんとSさんが行かれた時に渡されたものにもあるように、そのようなことが書かれていました。

27日の墓前祭は、先に町田管長のお参りが20分くらいあって、その後、町田管長が退席されて、そして我々が白川式でやりました。今日は、その一端と言いますか、我々も祝殿でやると言ったらおかしいですが、一つの遠隔法と言いますか、遠くからお参りをするという方法ですね。もちろん、このお墓の前でやる方法というのは、私が先生からお聞きしていた白川の方法があります。もちろん、古い時代には参り墓と、埋め墓というのが別にあった時代もありますけれども、多分、火葬が盛んになってからは、参り墓と埋め墓が一緒になっていったのではないのかと思います。

私が若き日に参った時には、白川家のお墓はもっといっぱいありました。広いところにあったのですけれども、その時には、一つ一つの石塔は、もっと広い間隔になっておりました。白川家の絶家ということもあったんでしょうけれども、お墓の改葬があり、いく柱かは、まとめてありました。

白川流の墓前作法は、祓詞を高速であげるという方法ですね。そして、一二三祓詞と、大祓なしで祓詞を唱えます。あとは忍び手ということですね。そういう方法が白川にも残っていまして、皆様方のご先祖様が祀られているところは神社ではなくて、お寺だと思いますが、神道ではそういう方法があります。それは、あと詳しいものは今日、皆様方が必要であれば差し上げます。墓前でやる詳細な方法があります。どうしてもやりたいということであれば、そういう方法もあります。無理強いはしません(笑)。

今回、白川と廬山寺という繋がりもこれでしっかりと出来ました。これでは、今年に入ってから白川伯王家をお祀りしている以上は、やはりそれに関わりのあるお寺にお参りして欲しいのではないかなという思いがありましたところ、皆様方におかれましては、お参りしてくだり非常に感謝しております。

Kさんは、本当に毎月、お墓を綺麗にしてくださっているということをお聞きしています。今は、次々と白川学館の人が行きますので、町田管長もびっくりしていました。今回は本当にしっかりと、その終わった後に、白川式の墓前作法も体験したかったと町田管長が仰って頂きまして、今度はそういう機会を必ずお作りしますということで約束をしてまいりました。

その後、直会があって、京都府議のI先生としっかりとお話をする機会がありまして、本来は神祇官としての、要するに、国家の安泰というか、玉体というか、天皇陛下の健康ももちろんですけれども、そういう祈る仕事が本来あるわけですけれども、それがたまたま今回の東アジアの風雲急を告げているところに、非常に大きく関わっておられたI府議と話す中で、日本と東アジアがこれから平和になる為に、何をすれば良いかということについての気づきが多々ありました。

◇「ロスト・マンチュリア・サマン」

次の日には、金大偉さんと、フランスのエスノグラフィルムの報告を受けました。最高賞というものはないのですが、扱いと言いますか、一番の評価をされた方はメインイベンターとして、金曜日の夜に放映されて、みんなの前で最後の灯火を消す役割を申しつかり、彼が一番を勝ち取ったようであります。1500本くらいの人類学、あるいは民俗学の学者と、プロの映像作家たちが集まって選んだエスノグラフィルムの正式招待作品として上映されて、喝采を受けたということを聞きました。まさにそれは「ロスト・マンチュリア・サマン」という作品でした。

人類学ということは、一つの消えていく民族の、あるいは消えていくということは、民族を消してしまう輩というか、民族が世界にいるわけですね。そういうものの懺悔ですね。残った方が懺悔する学問が、人類学というかですね。人類学の始まりということをよく言われるんですね。まさにそのような人類学のフィルムとして、ラストではなくて、ロスト、失われていくというシャーマニズムというものの2時間半にわたるドキュメンタリーでした。ロストということで評価が高かったようです。これは、我々がタイトルを付けたので、少しは後押し出来たのではないのかと思います(笑)。

これはまさに中国の清という帝国を作ったのが満州族なんですね。今、満州族は1000万人くらいいるんですけれども、満州語という言葉を話す人たちは35人くらいしかいなくなってしまったそうです。シャーマニズムというのは、まさに言語と一体なんですね。その点我々は、日本語というものと、この日本のシャーマニズムを高度化したというか、白川という形で、宗教を越えて科学になってきた歴史の中でですね、勝手に科学にして、と言いますけれども(笑)。

もちろん、宗教的なところや、シャーマニズムというところは、克服した部分があるんだけれども、そういう白川のシャーマニズムという部分というのは、満州のものと非常に・・・盆踊りだけではなく、沢山の共通点があります。いずれ我々が、ロイヤルアカデミーと言いますか、そういう大学というものを白川学館が大学を作ると思いますが、その研究テーマでもある。それは、本来は、國學院や皇學館ですね、皇学ですね。皇(すめら)の学問としてのものの研究が進んだ暁には、その辺のところが学問的にも、はっきりと満州シャーマンとの繋がりが証明出来るかと思いますけれども。完成体としての満州シャーマンの、それを受け継いだ、まさに王族としての役割を持っている金さんの映画に色々なヒントがあります。また、その流れを汲むのが高麗であるんですね。そういう朝鮮国は、高麗としてですね、これまた高麗のシャーマニズムも色濃く持っていて、影響を与えているんですね。その王族の中にあるシャーマニズムの代表者が、今の、ちょうど白川の審神者と神代という内容が当然残っているのではないのかと推測されます。

◇墓前にて、御魂と一体化してお祓いをする

それこそ祭祀というものは、見えない世界に向かって申し上げるというかですね、ですから、丁度、それは空中に向かって、今、皆様方がいらっしゃるから空中ではないのですが、でもこれもですね、皆様方に向かってお話するということは、丁度、全世界に向かって宣言する内容でもあるわけですね。我々は普段、そういうものをお祓いが終わった後、ご祈念くださいということで、公のことと、家のこと、白川のことについて様々な祈りをいたします。これが、すなわち祭祀というものの持っている中身になるんですね。それは宣言というかですね、しなければいけない。そのようなものが遠隔で行われますから、今日もこの白川伯王家の墓前に、みんなでもってそこに身をおいて、そこでもって祓いをあげるという形を遠隔でやって頂いたわけですね。

そのような一種の試みではあるのですが、これは私が東京に20年ぐらい仕事で行っていた時は、いつもホテルから、ここの神前に向かってお祓いをすることを朝、一週間のうちの三日はやっておりましたが・・・。今、墓前に向かってお祓をするということを時空間を超えてやらせて頂くというか、皆様と一緒にやって頂きました。非常に良かったのではないか、と。きっとですね、白川家の方々がまた我々を導いてくださるのではないかと思います。

この祀り方というかですね、白川家が本当に無くなって、絶家してしまっているわけですね。ですから、どうしても家の祀りをですね、末裔の方々にはやって頂いておりますが、国の神祇官としての中身というものはですね、これは天皇陛下がご苦労様でした、と言われれば、それで「the end」ということになってしまいますから、そこを少し、いよいよこのような大事な、日本の国の安寧の為に、白川家の今まで守ってこられた方々の、知恵というか、あるいは息というか、気というか、それを我々ひとり一人が受けてですね、そしてそれを大きな働きにしていくというかですね。その為に、白川の伯王家の神々をですね、「神安らかのつかさ 白川の神々」と、言挙げもしてお参りをやって頂いているわけですから、墓前と、そしてその御魂と、その働きを一体にして、そして力強く、これからの日本の安泰の為に、皆様でお祓いをあげて頂くことで、日本の国の為に力を尽くせるような場が出来るではないかと感じております。

我々が京都の白川伯王家の墓所として、白川学館としてみんなで行けるような場として、町田管長にもお願いしてありますし、またそれが出来ましたでの、みんなで、今日の日を、一つの白川における祭りとして、あるいはその前後でですね、白川の墓所もですね、皆さんに行って頂くことが出来るのではないかと思います。

皆様方に集って頂いて、有志で、遠隔で、墓前祭と感謝を捧げるお祭りが出来たことは、非常に有意義でありました。延信王の臣籍降下というか、皇室から源氏姓というか、白川ということを名乗った日を記念して、4月29日ということでお祭りをすることになりましたので、今後とも、また宜しくお願いしたいと思います。