0113話:2017年05月09日

Mさん、質問は何かありますか?

 

【Mさんより質問】

大祓は1日3回までとお聞きしたことがあるのですが、3回以上やらない方が良い理由というのは何かありますか?

 

【七沢代表】

ご修行というのがあった時は、そんなに大祓はあげなかったのですかね。やはり、白川は公家の一門であったので、苦行のようなことはしていなかったのかもしれませんね。過激な行をしないから、それで3回くらいだったのではないかなと。苦行というのは、あまり役に立たないということが昔からわかっていたのではないのかと。他のお祓いは、夜中でも10時頃でも良いのではないのかということもあるんですけれども、大祓は日が昇ってから、日が落ちるまであげるとかね。3回というのは、キリが良いということもあるんだけれども、僕はどんどんやって良いと思います。

神事で回答を得る時は、祓いは10回あげますけれどもね。祓いを10回あげてから回答を得るということをします。神様に聞く場合ですね。

3回だけしか出来ない、残念とか、そういう情緒的なことになるのでしたら、やった方が良いのではないのかと思います。変な言い方で申し訳ないです。

他に、何か質問のある方はいらっしゃいますか。

 

【Sさんより質問】

神を迎える白川は最高の能力開発だということを以前、賢治先生がお話されましたが、そのところを詳しくお聞きしたいです。

 

【七沢代表】

◇自分以上の存在・神を迎えるということ=能力開発

自分以外の人や物というのが、自分よりも優れていれば、それは全て神ということは、アイヌだけの伝統ではなく、日本神道の伝統でもあるわけですね。今日も、一人ひとりみんな違うということはよく分かるし、自分から見れば、外は、自分以外は全く違う存在というかね。ある面では、自分と全く違う能力を持っているということですね。そういう存在を神と言います。ですから、神も色々ありますね。上という神もあれば、神様でも尊(みこと)と言ったり、主(ぬし)と言ったり、様々な神様の働きが、司る範囲によって呼び方に違いがあります。

要は、神を迎えるということは、自分以上の能力を持つ存在ということなんですね。その存在の迎え方があるわけですね。だったらその神を迎える方法が分かり、迎えられれば、能力を発揮することが出来ますね。こういう論理を使いたくないけれども、一応、論理的に言ってみました。神を迎えるということは能力の開発、神を迎えるか迎えられないかということがポイントです。

◇神様を迎える方法論、それはシステム科学

有名な◯◯会議にも入っていた相当有名な教団があります。何百万という信者さんがいる教団があって、そこの亡くなった教祖様が、神が自分から遠ざかって行ってしまう寂しさを嘆いていたことがあります。嘆くということは、逆にそのこと自体の情緒は素晴らしい境地ということですね。聖書にも書かれたものがあるのですが、それを読んだことがありました。もの凄く大きな教団の教祖様ですね。我々が宗教をやらないということはそういうことですね。科学ですよね。

神も必要に応じて、と言ったら非常に神様に失礼だけれども、神様を迎える方法論と言った時、それは科学でしょ。誰でも均等に迎えられないとね。ちゃんと手続きを踏んで、システム科学という呼び方を現代ではしているから、神を迎えられるということが、イコール能力の開発に繋がるということが言える時が来たということですね。そういう意味での能力開発ということになるんですけれどもね。

◇霊という指導意志を、自分が困った時に呼び込んでお願いしてしまうと・・・

一方で、後ろから拝見していても、みんな一つの人格として存在している、どこにもない存在として、存在している。もっとも人類の中に全く同じような人が4、5人いるということも言われますけれども。十人十色ではないですけれども、一人ひとりが違いますね。では、どうしてそれぞれの固有な姿が見えて、みんなが会う度ごとに手を合わせるような境地になり難いのはどうしてかというと、自分を守る為に色々なものを援軍として呼び込んでいるんですね、人間はね。

その指導意志を発する存在を「霊」と言っているんですね。霊は、霊能力ということもあるんですけれども、これは神の様な能力ではないので、その指導意志の範囲で終わってしまいます。それは自分自身がどこかで、「助けて下さい」と呼んだんですね。お父さん、お母さんなど、生きている人は生霊(いきりょう)として呼んでいる場合があったり、亡くなった方だったら死霊、あるいは先祖霊という形があったりと。遠津御祖神を迎える、神を迎えるというところまでいけばいいのですが、そこまでいかない場合は、祖霊を迎えてしまう。そうすると、一種の霊になりますね。その先祖の能力、亡くなった人の能力の範囲で終わってしまうわけですね。ですから、個々の家の遠津御祖神というものは普遍的に全ての人類の祖に繋がりますから、それは大きな力になるんですけれども、霊という形をとった指導意志を、自分が困った時にそれを呼び込んでお願いしてしまうと、なかなか帰ってくれないわけですね。呼んだ方も、呼ぶだけ呼んで目的が達成出来たからもう帰っていいよ、ということは言い難いわけですね(笑)。

霊の話は最近、体系的にやろうという話になっていますから、徹底的にそれをやれば、皆さんは飛躍的に開発できると思います。それを上手く、今度は自分が困った時に神を呼べばいいのではないですか。神を呼んだつもりで霊を呼ぶということもあるので、その辺は困ったことになりますね。その辺はこれから詳しく研究する必要があります。

現在、霊の検査機を開発しています。その辺は、バレバレになるくらい分かってしまうものを作ります。概念というか、自分で調べるものにしなければいけないということを考えています。

◇「まじものせる罪」

実は、みんなの中にある魂というものは、一人ひとりの魂というのは、みんな同じなんですね。宇宙はある面では一人なんですね。みんなは一人一人、一つ一つ違うんだけれども、同じなんですね。これは矛盾した言い方になってしまいますが、仏教では「しゃべつ」と言うんですけれどもね。一人一人が違うんだけれども、仏様から見たら同じ存在なんですね。それが平等観というところに入るわけだけれども。一人ひとりの魂が違うものとして混ぜてしまうと、「まじものせる罪」なんですね。おまけに思想的な知識を混ぜることもありますね。お化けになってしまう、混ぜるとね。それが罪だと言っているんですね。多分、霊というものの混ぜ具合を言っているのではないかと思うんですけれどもね。

人間がそれぞれ独特なものを持っているということは、そういうものを混ぜている場合があると。お酒も安いものは色々と混ぜるんですよ。甲州ぶどう酒というのがあるのですが、僕が小さい頃、輸入の検査をする人とお友達でした。日本のぶどう酒が昔は不味かったので、そこでフランスのワインを混ぜるんですよ。それで売っていたんですね。それは高いものを混ぜると旨いというような、多分ただそれだけの甲州ワインだったんですよ。今から50年位前は。

それが今は、甲州酒がこの間、金山先生の息子さんがワインの輸入の大きな会社にいらっしゃっていて聞いたそうです。今、甲州ワインは世界でもナンバーワンだと言っているんですね。これは混ぜないからですね。フランスのワインを混ぜているわけではないですね。ぶどうのところからちゃんと作っている。

みんな一人一人が、一人一人の名前を持っていたら、その名前とその存在に対して混ぜないで堂々といくというかですね。どうしても自分の能力を外の、イソップ童話にあるようなものですよね。どうしても入れてしまいたいという想いに駆られるというかね。もちろん知識があるからそうですよね。

今は知識をいっぱい入れ込むということで、結局、そういう国のエリート達は、どこかおかしかったり、本当にその人の能力が発揮できないということが起こるわけですね。そういうことが起こってしまうから、本当は入れない方が良いのですけれども。元々は入れなくても、素晴らしい宇宙の本質の神と一つになるところを持っているわけですね。その為に、一つ、一人になるということは、そういう霊というものの働きを祓ってこなければいけないんですね。ご苦労さんというように。そして、一人になる。それで神を迎えれば、今度はその神と我とが一体となることによって得た能力が本当に強い。多神教でもありますから、それぞれの働きの神を迎えればいいんですね。知恵を得るんだったら、久久能智神とかね。あるいは、正しい結論を得ようということだったら、八意思兼神というかね。

◇どこかで入れた霊を自己だと思っていると、今度はその霊に自分が憑依する

霊の話をしたら、きりがないですが・・・。どこかで入れたということを考えて頂きたいというかね。沢山入れて、自己というものが本当の自分ではなくて、入った霊が自己だと思っていると、今度はその霊に自分が逆に憑依しますから、今度はその動きが顕著に出てくるわけですね。だから憑依されるばかりではないんですね。自分が憑依するということが起こるのが、また大きな問題なんですね。そういうことも含めて分裂したり、妄想したりしないようにするような作業というものを心がける。

そして、祓いというものは、まさにそれを実現する方法であるというかね。本当に生一本の自分になるということの、そういう修行、あるいは働きが、白川のシステムになっているんだということを知って頂くということが、一番大事なことかなという風に思います。

今日はこの辺で・・・。ありがとうございました。