0116話:2017年05月14日

◇皐月月次祭文

◇すめらみことの御為事

私が20代の頃に、丁度、皇太子がお生まれになった後ですけれども、皇太子の教育の一部が書かれたというか、「小説すめらみこと」という森左平さんの著書がありました。今、Kさんに著作を集めてもらっていて、復刻できれば良いかなと思っています。どこまで出来るか、まだ分からないですけれども。中身は要するに、祭祀の中で皇太子がいかに天皇になって頂くかということですね。今は丁度、この時期にご退位ということで、具体的な日程になってきていますけれども、そういう中で白川というものも、その「小説すめらみこと」の中にも中村新子先生の仮名の人とかが出てきます。その中で、後の中村新子先生の武勇伝と、戦前・戦後の白川の伝承の大切さを伝えて下さいました。天皇になって頂く為の大事なお仕事があるということを、宮家の皆さんや神道界にたくさん話されてきたわけですけれども。

今、丁度、そういう日程が出てきた段階で、一体どのようなことを皇太子様にお話し出来るのかということをつらつら考えています。今の段階で、そういうことを考えますと、非常にどうしたらというかですね。時代の移りゆく中では次第に象徴的な器の教えが哲学的なものになってくるんですね。北畠親房(きたばたけちかふさ)とか、本居宣長とかですね、江戸時代から、あるいは明治、大正、昭和とずいぶん変化してきているんですね。それは主に天皇陛下の役割というか、哲学的な意味合いというかですね。要するに「知ろしめす」という意味合いの変化ですね、あるいは言葉で言うと、そういう天皇ですから、「すめらみこと」という意味合いを持っている中身はいったいどういう御仕事、あるいはどのような境地で存在されていくのか、ということが問われているわけです。

丁度、いわゆる西洋のカソリックも、一神教神学から哲学に変化してきましたね。もちろん科学によって、進化学で迫られているわけですけれども、科学によって変わる中身もありますけれども。日本で言えば、哲学的と言いますか、天皇の境地と言うか、倫理的な境地のようなものが非常に問われてきて、こういう境地でなければいけないというような意味合いであったのではないかということを、色々と模索といったらおかしいですけれども、体系化しようという傾向が出てきたわけですね。そういう中で、今のこの時代に一体どういうことがこの日本文明、あるいは日本国というものの憲法第一条ではありませんけれども、そういうものが如何に表現されたらよいのかということは、国民として、あるいは国としての対応が非常に大事なところになるのではないのかと考えられるのです。今年前半は、そのようなことを非常に考える機会が多くありました。

◇白川の教えを守り伝える

白川の教えがどのような形で表現されれば一番良いのか、ということが課題、宿題かもしれません。「小説すめらみこと」以来の、自称皇太子の教育要員としての仕事かもしれませんね。何を教育するのか、何が出来るのかというと、なかなか心もとないところがありますけれどもね。しかし、そういうことを中心にして、生きてきたということの中では、そのことはどこかで表現しなければいけない。これは自分自身の人生で開発したことの体得と言いますか、自分自身で納得しなければならない中身でありますけれども、そのような中で、白川の教えというものを守り、それを伝えていって欲しいという遺言の中での、まぁ極端にいえば、白川(家)学館、あるいは白川の教えというものの一子相伝的な中身を、どうしてもこれはどなたかに伝えなければいけないという大命題の中で、白川学館の、あるいはこの祝殿の教えというものがしっかりと伝わらないと遺言に抵触することになるというわけです。

さらに、明治天皇が祝(はふり)の行をされて、それ以降の100年ですね、行が出来なくて大正、昭和と100年経ってしまった時に、祝殿を建てることが出来たわけですけれども、それは単なる数合わせの問題ではなくて、やはり伝えるということが大事なことかなという風に思ったわけであります。今や本当に沢山の方々に白川学館の存在を知って頂くことになったということは、非常に心強いし、またそういう同志と言いますか、志を同じくしてくださる方が沢山いらっしゃってくださっているということに対して、非常に有り難いことだと感謝の毎日であります。

◇器の教えをテクノロジーで説明する

最近では、鎮魂、言霊、それから祓いという3つに集約されていますけれども、この間もお話したのが、この祭祀の仕方というのは、ある面では非常に古いものであると同時に、新しい説明知をとっているといったら、おかしいですけれどもね。この祝殿の神殿の形は、仲哀天皇の時に、こういう祀り方があったということを説明したわけですが、それは一体どこに出ていますか、ということを聞かれたことがありました。これは日本書紀の中にあるのですけれども、仲哀天皇が熊襲を平定して、筑紫の国に凱旋してくるわけです。その時に、船で、賢島(かしこじま)で迎えた縣主(あがたぬし)がいるんですけれども、その迎えた時に、舳艫(ともべ)というか船の梶の部分でしょうかね、そこに大きな榊に、上段・中段・下段と三種の神器をお祀りするわけですね。それが、上段には八尺瓊勾玉であり、中段には八咫の鏡と、下段には草薙剣をお祀りして神をお迎えするということを、すなわち天皇をお迎えするということをしたということが書かれているわけですけれども。まさに、祝殿の御神殿の姿ですね、上に玉があって、中段に鏡があって、下段に剣があって拝するという形をとって作られています。そのようなこと自体は、器の教えということであるわけですね。永遠(とわ)に・・・天皇陛下は、次の皇太子に振り玉ということで、玉を直接お渡しするということがあるのですが、鏡は伊勢内宮に収めてあるわけですね。剣は移動の度に絶えずお持ちするということであるのですが・・・。基本的には器の教えということですね。器教といいますね。その時、玉も、鏡も、剣も一つの器教としての象徴的意味があるので、それをつけて、八尺瓊の勾(まが)れるがごとく、曲妙(たえ)に御世を治めて下さいということ、それから白銅鏡(ますかがみ)のごとく、分明に山川海原をみそなはせ、そして十握剣を取り下げて、天下を平むけたまへと、すなわち平天下ということを、仲哀天皇に縣主(あがたぬし)が奏上をするわけですね。そのような器の教えの中身を奏上するわけですが、自分がこれを習った順番を考えてみますと、やはり鎮魂という意味での、今の天皇陛下をお支えした奈良毅先生から鎮魂を教えて頂いて、この道が始まりまして、そして次に、小笠原先生の言霊というか、真澄の鏡ですね。

鎮魂、それから言霊、そして祓いとしての高濱浩先生からの教えとして大祓の世界ですね。それはまさに、「焼鎌の砥鎌(やきがまのとがま)」の切れ味ではありませんが、その剣というか、具体的なそのような宇宙というものを清めるという力の中身をお伝え頂いたというか・・・。三年間、高濱先生の隣で大祓は上げさせて頂けなかったんですね。ずっと先生が一人で大祓を上げる声をお聞きすることが三年間ありました。少なくとも、この順番というか・・・鎮魂、言霊、それから大祓というその三本柱、これがある面では、三種の神器の中身というか、そのようなことになろうかと思います。その3つの教えをさらに高度化するということは、今の科学や、説明知としても十分問題ないものとして、この時代に説明するというか、提出するということが役割なのではないかと感じております。

◇奇跡の実行

特に現在、色々な修行の中身の見直しをしておりまして、どの先生方からも一番お教え頂いたことは、まぁ奇跡の実行ということになろうかと思うんですね。十種神寶の中にあるような、そのような中身をですね、別にそれをいつも使用するような内容とは、とても思えるものではありませんが、少なくとも、十種神寶の中にあることになりますと、現代の我々の進化というか、人間としての科学というか、進んだ捉え方からみても、まだ十分ではないような科学の中身というものが、例えば、無重力とか反重力ということが、たまたま、ケイ・ミズモリさんという方がそのような本を出しましたが、我々からすると奈良先生、あるいは小笠原先生、高濱先生というのは、要するに、我々が使っている科学での常識を超えてと言いますか、奇跡というところから、そのような発想をする先生方でありましたから、奈良先生なんかは、この水のコップがテーブルからすり抜けて落ちるか?というような、禅の公案のようなことをいって、落ちないということが奇跡なんだ、という教育を受けてきたのですが・・・。十種神寶の中にあるようなことは、一生の間に一回使うかどうかと言われていました。私も父親が亡くなった時に、思わず死返しの玉を使いたいと思ったことがあります。後に、高濱浩先生は神をお迎えされる時、空中浮揚をして迎えておられたから、そのようなことが当たり前だということも分かったのですが、どうも思いますに進化ということが、確かに人類にとって反重力というものを使う時がくるのだろうと思いますが、きっと言霊が中心的役割をするだろうなということです。

これは、今や言語遺伝子として、FOXP2というものが内在しているというか、ヤコブソンという人は「あいうえお」が左脳と右脳にあるといって、ウェルニッケ領や39野とか、言語脳というのは多岐にわたっているのですが、そのようなことが進化の中で、DNAの中にあるということがわかってきたんですね。これは動物が使う意念言語とは違う、伝承されていくものであるわけです。非常に心強いことではあるのですが・・・。

多分ですね、我々が天津神と言っている中身の言霊からしますと、そのような言葉というものが、少なくとも我々の中から外に出ていくわけですが、そのような構造が、どうもすでに無重力というか、そのようなものを意図していると言うかですね。それは、ものを浮かせたり、人が空中浮揚するということの中に・・・、まぁこのことはオウムの問題があったからあまり言わなかったんですね。Yくんは、空中浮揚をやっていた成瀬先生のところの出身者ですから、そんなことは当たり前だってことですが・・・。私も成瀬先生のことはよく知っておりましたが。白鳥先生からみれば、禅でそんなことを言ったら、警策でバンバン叩かれるだけで、いうようなことではないのかもしれませんね。たまたまケイ・ミズモリさんが無重力、反重力に科学的な本を出されていたので、これは昔取った杵柄というか、そのようなことでこんなことを言うのですが・・・。

どうも、思い起こしてみますと、高濱浩先生が言われていたことは、修行の時、祓いで修行者を浮かせるのが当たり前だったと。昭和の頃までは、宮中では空中を浮揚してお供えをする人がいたことをお聞きしているのですが、実際に座っていて軽くする、どのぐらい軽くなったかということは、お祓いを上げる前と後では違った重量になることは、確実に体感できる最初の兆候です。高濱浩先生はどうも今から考えてみますと、ご修行のお祓いのあげ方というのは、右回り、止めて左回りを自在にやるんだということを仰っていたんですね。実際、私も人間を浮かせてきましたがね。

特に椙村先生は浮いてしまうから、私がよく帯を抑えてお祓いを上げておりました。椙村先生は、空中浮揚が出来るということで、若い頃にスイスのマハリシのところに国費留学された経験があって、インドでも何度もそのようなことをやっておられたようですが、やはりここでも浮かび上がられるので難渋しました。

高濱清七郎先生の頃は、ご修行でやはり天井に張り付いてしまうということで、クモのような、スパイダーマンになってしまうことがよくあったんだというようなことを聞きまして、そのようなことを当たり前にやっているフシがありました。はじめの頃、先生に「先生浮いているじゃないですか」って言ったのですが、ニヤニヤして、それだけで何も教えてくれなかったんですが・・・。どうもですね、祓いの詞の上げ方が、右旋左旋という形の中に浮き上がる秘密があることがわかります。

◇正エネルギーと負エネルギーのメビウス的転換

ですから、人間がこの無重力というところでの新しい進化が行われるとすると、言葉、言霊がそれをやるのではないのかと。エネルギー場的には、負のエネルギーと正のエネルギーのメビウス的転換が起こることをどうもやるんだろうと思います。

人間の血液は瞬間速度が、光の600倍の速さがあり、心臓から血管まで19秒で行くと言われます。その右旋と、止まって、そして左旋が血管の中で自在に行われてきているということがだんだんわかってきているようですから、人間の中にもそのような構造と機能とを持っているんだということがはっきりしてきました。今更、なんでこんな話をするかというと、ほとんど忘れていたような中身だったのですが、今、考えてみると、このようなことで一つの意識の転換が出来るのではないかと思いまして、この時代でも、もう一度考えてみたらどうかと思った次第です。実際にそのようなことをやってみる方が一番いいのかもしれませんがね。今日はなんか変な話になってしまい、申し訳ありませんが、このあたりで・・・。

◇おわりに

みなさん今日はありがとうございました。また直会の時に色々な話が出てくるかもしれませんが、やはりどんどん色々な時間というか、時代というか、本当に進んでいくので、非常にキャッチアップすることが難しいところがあろうかと思いますが、やはり融通無碍の心でいたいと思います。情報を受け取る自己が、取り込む時に瞬時に情報を取り込んでいるわけですが、我々は特に情報というのは、まさに「情」の「報」ですが、知の情報とですね、情の情報という、まぁアナログで、どうしても知的には受け入れ難かったり、あるいは心地悪かったりしますが・・・。まぁ、この時代というのは、やはり知、知識というか、取り入れることが基本的な動作のようになっていますから、そこで取り入れてもいいかどうかを考えて、まぁ門番がいてですね、これは取り入れよう!これはやめよう!といってやっていては、時を逸してしまうということが多々出てきているんですね。この時代のスピードの中で。

しかし我々は、知を知恵にしないといけないというか、ただ入れるだけでは何の役にも立たないと思うんです。知識を知恵に変えていくことがやはり大事なことですね。知恵ということは、自分だけに使うだけではなくて、「恵む」と言うんですかね、人助けをするという意味があるわけですね。これはまさに「公」という中身であるわけですから、公の為に役立つということが前提になっていることが、知恵になるということですね。その知恵を働かせていくことが大事だし、その知恵をみんなにお分けするというか・・・ですから、我々はナレッジ憲章ということで20年以上やっていますが、個人の固有知識を共有知識にすることは、非常に大切なことなのですが、その共有知識という意味が、単なる一緒に知識を持つということだけではなくて、それを共有の知恵に変えて、そしてみんなの為に使って頂くということが、今、我々が開発しているものもそうですが、少なくともそういう中身でないといけないのではと思います。ですから、知恵を、これはやはり仏教でいくと大乗の道に繋がっていくと思うのですが、慈悲に変えていくというか、そのような想いを実現していくということをやるんですね。

小笠原先生は役割として、今は人助けをしないということを宣言をして、言霊の道を極められた、そしてそれを後世に残して頂きましたけれども、それは膨大な中身でありまして、今、我々が先生の知を広めて知恵に変えていかなければいけない時にきたのかと思っております。先生は単なる言霊だけではなく、スピリチュアルな世界の問題点を全て解決するような意味での研究を盛んにして頂いた中身もありまして、これからはそのあたりもお出ししてですね、そして今、我々は妖怪退治なんてこともいい出しておりますが、今の社会を止めたり、あるいは鬱滞させたり、暗くする内容である妖怪的な中身を、本当に綺麗に解消していくような形で、機械や装置を、あるいはソフトを作っていこうという努力をしておりますので、皆様にもご協力いただければと思っております。

今の時代というのは、あらゆることを手掛けなければいけないし、自分の任ではないとは言っていられない時代でもあるし、意識進化ということが、非常に素早く行われていくというか、その中で人類が先ほども言いましたが、進化の中で掴ませて頂いたい、あるいは齎せて頂いた言霊というか、言葉というものを、これからの時代の中でよりよく役立てて、そしてそれをさらに高度化して、科学や、あるいは心地よい人と人の関係の中での情緒的言葉というかですね、あるいは宇宙における祓いの言葉というか、それをさらに実現していくということでの進化が問われるのではないかと思います。是非ともまた頑張ってやっていきたいと思います。

地山謙(ちざんけん)という、謙虚という易の64卦の一つがありますが、自分自身が様々な、我々が新しいことも一つのミッションとして行いますが、やはり一人ひとりは、あるいは我々、やる人間が、謙虚であることが一番大事な心の態度なのではと思っておりまして、謙虚にやっていこうと今月はその実践の月でありたいと思っております。

今日はありがとうございました。