0125話:2017年05月25日

◇神が創造したものと一つになる、その為の一つのたよりどころ。言霊

神を掴むとか、神を食べるとか、非常に人間の方からのアプローチのことを言っているのですけれども、我々は創造神から創造されたもの、被造物と言うんですけれども、創造者と被造者、被造物の関係性の中で捉えているわけですね。人間も、物、者の一部かもしれないわけですね。そういうもの、そういう存在が、神が創造したものと一つになる。あるいは、世界が分かるということをやろうとしているわけですけれども、その為に我々は言葉というものを一つの頼りどころとしているわけですけれども、それを言霊と言っています。

「たま」も2つあり、霊魂の霊と言霊というようにですね、それを分けて捉えているんですけれども。言語というのは二項対立で出来ているから、理解の仕方が位相レベルで、階層によって理解できないわけですね。ですが、階層と位相はある面では対立していないわけですね。だから、そういう言葉が、二項対立の中で自己の思考が左右されると、平面を行ったり来たりで、それが階層になって越えていくことが一種の悟りということになるわけですけれども。我々が生きている世界は、ちょっと見では非常に荒々しい世界です。自然もそうですね。

今、御田植祭もして、日傘が出てるくらい、上空では冷たいということと、暖かい空気が混じり合いながら激しい旋回をしているわけですね。そうするとそういうものが現れるわけですけれども、風が吹いたり、雨が降ったりするわけですけれども、そういう激しさという自然も神なんだということですね。人間が上手く生きられるような、ある面では始めから公ではなくて、非常に私的な部分を助けてくれる神もあれば、天津神という神もあるんですね。階層性の中で、どうしても働きを捉えていかないといけないわけです。それでステップのようなシステム的な教育が出てこざるを得ないわけです。

◇エネルギー場を階層場の移行として捉える

今日、お話しようとしたことは、一種のエントロピーみたいなものですね。力というか、そういうものの出処というものを、我々は神の創造と言っているわけですね。エネルギーというものが、元から出てくるわけですが、それが次元を介して出現してくるわけですけれども、その中で、時間というものさえも1つのエネルギーであるわけですね。そのエネルギーというものの出処と広がり方というところで捉えていかないと、どうしても強いか弱いか、大きいか小さいか、ということにはまってしまうわけですね。

今の水のことにしても、そういう意味合いというか、僅かなところに情報を入れるということになるわけです。ですから、我々は普段、発している言葉ということの中に、どのような形で情報が出ていき入っていくのかというね。それは単なる声が強いとか、大きいとか、そういう音波の問題ではないわけです。そういうエネルギー場を階層場の移行として捉えないと、なかなか理解できないところがあります。それをやるのが、我々が今やっている祓いであり、言霊であり、鎮魂であります。鎮魂というのは、微かな創造の息吹を掴もうという世界です。一方では、それが今のところもの凄い爆発と共に出来上がったという神話というか、物語にはなるんですけれども。

◇誰にでも神は掴める

階層性の中でエネルギーの働きを考えないと、先ほど言いましたように、神様というものは一体どういう存在なのか、ということのそれの現代的な理解ということをする時に、神というものは微かな存在のような働きのように見える存在というかですね。今の人間の荒々しさから言えば、非常に微かなものでありますね。

だけれども、遍満している、全てのところに息づいているということになるわけですね。全てのところに息づくというような息づき、広がりのところですね。それでもなお、減っていかない。

誰にでも神は掴める。あるいは、人体の中に一緒になっている存在ということになるわけですね。それを本来の霊性という意味合いで、どの大きさでも、瞬時に創造の息吹というものと、創造されていくものと結びつけていくというかね。それが日本の結びの五霊というか、結びの働きを司る八神殿の世界であるわけですけれどもね。それが霊をもってというか、それが一つの素粒子やプランク長であるかどうかの微細なところから、無限大に近いような膨大な空間にしろ、そういうものと結びつけてくれる存在があって、それが最小単位の「たま」から大宇宙まで「たま」であるということになりますね。

◇二項対立の概念ではなくて階層的な働きの中で捉えていく

それが今度は、具体的な物質の結合の世界が出ていくということですね。一番重いのは金かもしれませんね。あるいは、鉄かもしれませんけれども、そういうものを求めて宇宙が進化しているのかもしれませんけれども、金を求めても今度は人間が生きるという微細な働き、僅かな働きにはならないわけですね。要するに、経済原則に関わる金だけ求めても何の意味も無くなるということです。

そういうことも含めた、グルッというところは、エネルギーと言うものの働きは階層的な働きの中で捉えていくということをしないといけない。階層の働きということは強いとか、弱いとか、自分たちの脳の中での、平面での二項対立の概念ではなくて階層の中での概念で、それを使ったりするということをする、というのが我々の五階層ということになるんですね。そのあたりをしっかりと使えるようになるということが、このお祓いをあげていてもその中にあるということを一つ頭に入れながら、階層の違うエネルギー場を自分に持ってきて、それをまた発信というか、使うということが一番効率的な使い方なんですね。

自己対立の強いとか、弱いとかではなくて、プラスとかマイナスとかいうことではなくて、スパークするものではなくて、物が生み出されてくる時のエネルギー場と、物が拡がっていく時のエネルギー場は明確に違うわけですね。我々が一言、発する時も、物や事を創造するということに機転を置いた発想をもって、言葉や意識を出すということによって、そのことが低いエネルギー上でそれが実現できるということに繋がるわけです。

そういうものを目指しているということを、1つはしっかりと知っていくということは、神を掴む時の一番の創造性というか、我々はそれを造化三神と言っていますが、物が造り出されていく世界を神と呼んでいるわけです。その始まりの造化三神を頂いて、その世界を掴んでいくということが可能だということになります。それで毎日、それに向かい合うということの意味での祓いになっています。それを理解していくと、我々の楽しいというか、この中にあるように平らけく、安らけくになっていくというかね、つまり平安ですね。

◇京都の鐘の音は平安を願っている

平安京は千年の都として、人間の社会としての理想を追求する意味での平安京が出来てくるんですね。それが150年前の話だし、京都の人たちは天皇陛下が旅行に行かれているという意識でもあるんですけれども、そういう千年の都の願いを鐘の音の中にもありますが、京都の鐘の音はそういう音階になっていて、平安を願っているというところがあるんですけれども。そういう平安というものの世界、祓いの中でやっているその境地というか、まさにキリスト教では創造されて良しとされたというような生き方というかですね。

我々も、言葉や、あるいは生きてきたということの中で、一日の苦労は一日で足れり、明日のことは、明日自身思い煩うというような、寝る前に今日一日良かったというような境地が社会としてあったんですね。それを千年間続けてきたということは非常に素晴らしいことだと思います。もちろん、応仁の乱とか色々ありましたけれども、少なくともそういう境地を大祓の中で実現していこうということですね。その辺りがお祓いの、平らけく、安らけく、清らけく、明らけく、という境地をお祓いの中でやっていくと、低いエネルギーで実現できるということがだんだん可能になるということですね。その辺りが実現できるのではないのかと。それは階層知で理解することが大切なことではないのかと思っています。

今日はありがとうございました。