0128話:2017年05月30日

Oさん、何か報告がありますか?

 

●Oさん

デジタルメディテーションの月例会が活発に行われていまして、僕のところでは先週行いました。僕のお客様がほとんどだったのですが、28人集まりました。26人が地元の方で、あとは奈良からと八王子からの方がいらっしゃいました。当日は、アンパイアーを回していました。その中で奈良の方は白川の門人で、しょっちゅう祝殿講習でお会いする方だったのですが、やはりその時と全く違う体験をされていました。

デジタルメディテーションの月例会は開かれていて、凄く入りやすいのですけれども、デジタルメディテーションでもしっかりと深い体験が起こってくるんだなぁと感じました。初心者の方でもお話を聞いてみると、本当に初めてなんですか?というような体験をされて、やはりデジタルメディテーションというのは本当に凄いなと。間口が広いので誰でも参加できて、しかも初めてでもそれなりの体験をされて満足感があって帰って行かれるというのは凄いと思います。これから世界に向けていけるのではないのかと。

世界に向けてと言うと、昨日、丁度、毎週スカイプを使ってデジタルメディテーションのファシリテーターと繋がってお話をさせて頂いていますが、タイ王国にいらっしゃるIさんという方が外国に住んでいるザ・ワープ出身の方が20名くらい仲間がいらっしゃるのですが、そこを繋ぐ役をかって出てくれまして、ファシリテーターとなって世界各国でやりたいという方もいらっしゃるみたいなので、また世界的な展開が開けるのではないのかと非常に楽しみにしています。

 

【七沢代表より】

◇鎮魂の形式は縄文時代からあった

デジタルメディテーションは鎮魂の一つの表現であるわけで柱の一つですね。何を歴史的にやるかというと、メディテーションですから、一番の根っこから言うとヨーガとか、仏教の禅とか、禅というのはある面では、仏教の最後の到達点でもあるわけですが、その到達点の中では悟りと言っています。禅定ということの体感と悟りということの境地ですね。これが目的なわけですけれども、はっきりと言って、鎮魂の形式は、日本では縄文時代から石を積んで集中すること、自然と一体となる方法としてあって、自然と一体となれば、自然の中にある声と言いますか、一番、今、自分が生きるということに対して切実なテーマが解決するという意味で、自然と一体となる方法としての鎮魂があったわけですね。本来の生きる為の切実な方法と、即、結びついた法が鎮魂だったわけですけれども。それが日本では、主に出雲族が発達させて来たんですけれどもね。

◇鎮魂で一体となる体感を掴み、悟りの階梯を踏んでいく

大陸から伝わってきたものの中にヨーガ、いわゆる梵我一如という自己と宇宙が一体となる原則があったんですけれども、そういうものをもってしても、知的階級のようなところが主に使ったものですから、非常に知識で広がっていって、なかなか体感とか、悟りとかいうところが、ほとんど実現できていないのではないかというくらい歴史の中では達成出来ていないわけですね。その中で我々が今、鎮魂という形の新しいデジタルメディテーションというものを、機械装置も活用してやろうということで始まったわけです。当然、その目的としては梵我一如、地球、あるいは五行と一体となったという感覚、当然、神と一体となるという遠大な理想がありながら、まずその前提条件にある自然というものと一体となっていくという感覚を掴む。そして、それが最初の悟りから白鳥先生がいつも仰るように、悟りにもいくつもの階梯があるというように言いますけれども、それを私は五階層の悟りと言っています。そういうものを踏んでいく手立てになるということですね。

ですから、まだ実現していないものをやるから難しいところもありますが、先ほどOさんが言われていたように、最初の初心者でもビギナーズラックではなくて、そういう世界を体感できたり、ある悟りを掴めるというかね。そして、悟りというものの段階を踏んでいける道があるということが、このデジタルメディテーションの持っている実現力というか強さと思うんですね。しかもそれは、そんなに沢山やったことがない、私は鎮魂というものを何千時間か分かりませんがやってきました。それが楽しいからずっとやって頂けたですが、学校が無い時は一日中座っていました。それくらいやっていたので、その世界は分かるのですけれども、少なくとも初めての方々がたくさん集まって、非常に良い経験が出来て、単なるスピリチュアルと繋がるということではなくて、自然にそういうものを超えて、五行とは、風とは、あるいは木火土金水というものを体感し、一時の静坐で得られるわけですね。

◇思考を止めて宇宙創造の流れを観察する

これははっきりと言って、歴史上無かったことなんですね。それが鎮魂という形で残っていたのですけれども、それは縄文時代に日本人がやっていた技なんですね。大きさや丸さは色々ありましょうけれども、一番てっぺんにこういう石を置いて集中するという方法が残ったわけですね。それは祈りとはまた違うのですが、少なくとも地球、自然、宇宙と一体となるという感覚の中で、そういうものが残って、それが今この時代に鎮魂という形で出すというかね。それは、ほとんど何百年か、白川でも大名たちの家とかを鎮魂祭ということをやってきましたけれども、それはどちらかと言うと、スピリチュアルなところに結びついた霊的な技術というもので鎮めるということが、主な目的になっていましたが、今はそれを超えて、本来の魂というか、五魂という自然の働きそのものによって、人格というような関わりの荒々しいとかではなくて、物事が創造されて維持、帰趨していくというような一連の神の創造レベルの問題で、一つの場面場面を表現すると五行や五魂という中身になるんですね。それを我々が掴もうというのが、鎮魂の今の時代の目的となるんですね。ですから、何もないけれども宇宙を一回転していくというか、宇宙に広がって布斗麻邇のところに戻ってくるというか・・・。

そういう感覚と悟りを我々が自覚できる能力を持っているということが、ポイントとなるんですね。布斗麻邇から布留部、鎮霊、鎮魂という大きな宇宙創造の流れの中で、一つ一つを五魂という形で掴むということが可能だということ。その流れがその表現であると。少し難しいですけれども。ですから、本当に瞬間に鎮魂して座るということは、端的に言えば、人間の思考を止めてみるということだけなんですね。そして、宇宙創造の流れを観察するということが可能になって、そこに見えてくるところがあるということですね。それが一つの大きな最初から悟りということ、体感ということを前提としたものが鎮魂法であるということが非常に大事なところだと思います。そのあたりを何度かやっていくうちに分かってくるのではないかと思います。

ありがとうございました。