0150話:2017年06月28日

◇階層論

今日は時候の挨拶でもしたくなるような雨ですね。今週は、丁度、天照大御神様の話をしていますが、今までは、あんまり言及しないというのか、何故かと言うと、一神教の神様みたいに、明治の20年間くらいで決めて、伊勢神宮が丁度、バチカンのような形で進めたような気配がありました。天照大御神もまた、天之御中主大神を迎えるという世界ですね、我々として見ると。そういうことは150年くらい言わなかったわけですね。明治の前に行われていたことは、無いことにしてやってきたという経緯があるから、なかなか言いづらかったところがありますけれども。

ただ、神話知を現代風に翻訳しないと分かりづらいところがあります。神話知を現代の科学的な知識にして思考というものを進めないといけないんですね。そうしないと今に生きる知恵にならない。

忌の機屋(いみのはたや)という言葉がありますね。己の心と書いて、忌と書くんですね。己の心という、忌の機屋の機というのは、今でいうと機械仕掛ということ。人間機械論ではないですが、要するに、人間の頭、人間の心ということですね。神様の心は、また人間の心と繋がるんですけれどもね。だから、神様の己の心を、我々は神、霊、魂という階層で掴みますけれどもね。どうもそういう世界が分かったのは、20世紀だったのですね。僕が最初に階層論を学んだのは、構造主義という一種の哲学と、宗教学の新しい学問の方法論があって、人文科学では自然科学に一番近い言語学の構造にもなっているということがあったのですけれども。

今度、甲斐犬の本にもありますけれども、甲斐犬の何が美しいのかというと、野生の美しさだということですね。レヴィストロースの「野生の思考」です。自然と人工という区分が、20世紀が本当の所、20世紀まで分からなかったのではないのかということを学びました。そこから構造主義というものを学んで、階層論ということに辿り着くんですけれども、階層論というのは案外、みんな分かっているようで分かっていなかったんですね。それは20世紀の研究の賜物かもしれませんね。知識というものを一生懸命に学び、深化させた賜物だったのかもしれません。そういう観点を構造神話学というような学問になるのかもしれませんが、神話の中にそういう観点を取り入れると、天照大御神の世界、それを言霊では、アナ、マナ、カナと言いますけれども、それも全て神の世界の話とすると、合点がいくところもあるわけですね。

それは心のというか、要するに、最小単位同士が結び合って、音というものが出てくるわけですね。ですから、一音が出るという事自体が不思議なことなのですが、150年前にアルファベットが齎した父韻という概念を作ることになったんですね。ローマ字が入ったことで、母音と父韻とをくっつけるということで、父、母、子という三位一体論になるということですね。それを形というか、ものが音だから、無いようなものですね。子音は、父韻と母音が結合する瞬間に起こるから、父韻は192Hzとか、非常に早い振動数ですから、「タ」(T+a)とかですね。「タ」というのが、「T」と「a」になるということが、今まで分からなかったんですね。今まで、速さで分からなかったのかもしれませんけれども、そのように父韻と母音が合わさって、子音になるということを脳の中でやっているわけですね。それがまた出てきて、相手に伝わったり、自然存在に伝わって、またそれを確認するということを我々はやっているわけですね。

その世界を言霊、言霊学ということで言ったんですね。コミュニケーションが出来る道具としてあったから、そういうことを言い出したわけですね。ですが、言葉は瞬間に現れるのですが、また別れて分散していき、また元に戻っていくという繰り返しですね。瞬間に伝わるのですが、それが影も形もないというかね。それを影も形も現したのが文字ですね。音声言語から文字言語になっていくわけですね。それが印刷できるようになるわけですね。それが今は、ネットの中にあるわけですね。僅かなシリコンのチップの中に格納するということ、あるいは量子の中に動きが出来るということが起こるわけですね。

◇階層を掴んでいくと、みんながより良い住みやすい社会というものに繋がる

今、量子コンピューターがだいぶ進んできたということが、ニュースになっているわけですけれども、そういう量子でやるようなこと。要するに、高速化するということですね。考えられないような高速化が起こっているわけですけれども。

元にある知識というものをしっかりと捕まえる時には、元々の分離したものというか、そういう母音と父韻が子音になって、子音がみんなに分かるということになるわけですけれどもね。それ以外の時は、父韻だけを言っているから、ピグミーの言葉なんてそうですね。口の中で高速でピチピチと言っているんですけれど、それでも分かるんですけれどもね。その前はアボリジニーのように、テレパシーで音を出さないでも、脳の中で組み立てるということをして伝えるというかね。もちろん、だんだん音になって、低い音からだんだん広がっていくというかですね。その楽器が、ディジュリドゥ(イダキ)ですね。

要するに、そのように一気通貫の論理性を言える時代に来たということですね。脳の中で起こっている出来事というのが、それが我々が病を起こすと、妄想か分裂か、ということになっていくんですね。分裂ということも分からなかったわけですね。精神の病というのは、様々な神経症も含めた病かもしれませんが、その特徴というのが、脳の中でその構成が変わってくるというかね。

昨日は、椙村先生と10年以上一緒に脳の世界の研究を毎週のようにやってきたのですけれども、そういう中でもって、現代科学の一番の問題点である無重力の世界を、何度も一緒に体験してきたわけですけれどもね。昨日でもそうでしたが、病というものは、どこに行ったら病かということで、体の問題もそうですが、精神の問題というものも、メカニズムを考えないといけないから、我々の周りには、沢山の精神科医がいるんですけれども、そういう研究を、今日、気づいた範囲では、病気の一番の原因になるものというものが特定できるなということですね。脳の中で同じ言語を編み出すと、要するに、同じ模様を創り出すわけですね。今言っているのは、忌の機屋の話と脳の中の話ですね。

心が父韻、母音を構成する時ですね。要するに、模様で分かるということですね。日本の織物の模様というものは、ここにはアフリカの織物の模様というものも置いてありますけれども、やはりその違いというのは繊細さですね。そういうものが真実の布を振れば、みんなの病気が治るというのが、比礼(ひれ)の思想ですけれどもね。神が振る比礼という布きれがあるのですけれどもね。要するに、織ったものがどうしても問題が起こる。

ギリシャではクモを描くのか、蟹を描くのかで分かるということが、ギリシャ神話ではありますけれども。蟹は神に似るから神似(かに)、そういう図柄になるのか、あるいは、クモになるのか、足の本数もカニ10本とクモ6本、ということもそうですけれども。何を言わんとしているかというと、病気というのは、一つは人間の脳の中で、いつも同じ模様を編んでいくということになるんですね。次々に変わっていくので、人間は色々な模様を描くはずなんですね。それで天の模様を作るということもありますけれどもね。

そういうものは縄文時代にいっぱい作られているんですけれどもね。整然とした模様を描かないということ、連続性がとれない分裂状態ということ。また、いつも同じことを繰り返してしまうということも、脳の病になるんですね。そういうことの中で一番大きな病は、階層にならないということが最大の病ですね。みんなが階層にならなければ、みんなが病気だから、その中で強い者が支配するという世界になってしまったんですね。そういうことにならない神、君、臣、民ではないですけれども、社会体制としても、階層というものを掴んでいくと、みんながより良い住みやすい社会というものに繋がるんですね。そういうものを人類はしていくということになるんですね。

ようやく20世紀で、始めて階層というものを理解する脳の構造というのか、忌の機屋の織り方が、もう一度、天照大御神という世界の神話知に還って、編み出すということが、我々が出来るということを言いたかったんですね。ポイントは階層性ですね。僕は何で階層ということが分からないのかなと思っていましたが、僕は何年もかかって、階層ということを掴んだんだけれども、掴んだらそんなことを忘れて、すぐにみんな、誰にでも出来るものと思っていたら、人類が20世紀まで出来なかった概念なのではないのかということが分かってきたんですね。そこに、気がつきました。

みんなが急に、五階層なんて分かるわけもなかったのですが、申し訳なかったと反省しています。その辺も今度はやっていきたいと思います。ありがとうございました。