0151話:2017年06月29日

◇「faith」と「まこと」

我々は宗教のことを非難するというわけではなくて、今の時代で大切な役割をしていると思いますけれども、何が宗教の特徴かというと、一種の信仰体系で出来上がっているというか、それで成り立っているんですね。信仰体系ということは、信じるに仰ですね。昨日あたり、また考えることがあったのですが、お祓いも良いと思って、やみくもに発声したら一種の信仰体系に捉えられてしまうわけですね。

世界的に見ると、古神道というのは宗教であるかどうかということは、いつも問題になっているわけですけれどもね。肝心の一番根っこのところを話しますと、信仰の信は、faith 信じるということですから、よく言われるのは、カラスが白いと言ったら白ということですね。まぁ先日、突然変異で白いカラスが出てきちゃいましたが。

信じるということは、最初にこういう風に生きたら良いよ、ということが、神の、あるいはその意を対した預言者、救世主の言葉として、その人の言葉を、いわゆる信じるという形をとるということになります。必ずしも人間は正しいこと、正義がいつもあるわけではないわけですから、だんだん時を経ると、科学的に進化したり、人間の生き方に合わない場合が出てくると思うのですけれども。そういうものでも、とにかくお釈迦様が最後に説いた教えでも、2700年前に話ですね、イエスさんでも2000年前の話ですね。ですから、若干ズレてくるわけですけれども。

その通りと信じなくてはならない。日本流では、信を「まこと」と訓読みしますが、まことが「真」、「誠」とも表記します。我々が信仰の信を使ったとしても、そこに真、誠があるかどうかが問われることになってきます。

◇「虚」と「誠」

平安清明の上位概念みたいなものとして、日本にあるものは「誠」ということですね。虚と実ではないですが、虚と誠ということも言ったりします。I先生のインスタレーションではないですが、それは、虚と実を上手く合わせるわけですけれどもね。その元の日本的な美の世界というのは、「真景」と言ったりします。

情緒的には愛と言っていても、誠が無ければ愛着で駄目だということですね。鎮魂も結局は、空とか、無というものを信じるという、ただの心の意識ではなくて、そのような真というものが中心にないと、全て意味が無くなってしまいます。まことということは、自分自身が、自分自身に対して決めて、その決めたことについての正確なストロークというか、確かにその通りと思ってやるわけですね。ですから、みんな祈りなんかでも、然りということになるわけですね。その通りですということで、共に祈るわけですけれどもね。

我々はお祓いが終わった後、自分自身の誠を表現して、それで生きます、という決意表明をしますよね。それがロゴストロンの言葉にもなってくるわけですけれども。そういうことが基本にないと、何の意味も無いというかね。例えば権力者にとって、不都合であれば、面従腹背というか、顔ではニコニコしていて、心では全然反対ということが起こるわけですね。社会というのはそういうところで、だから外面如菩薩、内面夜叉というか、ニコニコ菩薩のような顔をしていても、心の中は夜叉というかね。そのような捉え方がどうしても世界としてはあるわけですね。

祈っているからと言って、その教団や組織にとっては、都合が良いことかもしれませんが、大きな意味での世界という観点から捉えると、それは必ずしも丁度、曇りの時に大地から太陽が覗いたとか、あるいは雲が下にあって、ずっと太陽の光の中にあるかぐらいの、光の具合が違うと思うのですが、そういう生き方の中心に誠ということを古神道は大切にしていますね。

自分で決めて、他者の呪縛の中に入らないで行く方法というのは、自分自身がそれを決定して、そう生きるという時に、それが誠のところだと思うんですね。それが自己の意識の範囲の中で出来るというかね。自分が一番得意なところで、それをどうぞご照覧あれというかね。これは戦国時代の武将や武家の生き方ではないですが、どうぞ仏様、神様、自分の行動をつぶさにご覧になってください。それで問題があれば、それを変えて下さいという祈りを500年位前の武将たちがした、ということも甲斐の国史にも出ていますが。「ご照覧あれ」というか、そういう言葉もあるのですけれども、いわゆる支配、非支配ではないですが、公家であれ、武家であれ、そういうものが基本にあったのではないのかと。

◇誠を釣りあげる、祀り

奈良先生の同僚で、インドのカルカッタ大学の教授であったマツールさんという方がおられました。三島由紀夫をベナレスの火葬場に案内した方です。よく冗談で、神道の儀式が終わった後、私は祀りのマツールです、ということを言っていました(笑)。

要するに、信をつるんだということで、それをよく解釈して、誠をつるんだ、誠を釣りあげるというのを、祀りという風に意味論で言ったこともありましたけれども。そういうことに特化するというか、神道の儀礼というものが、自分自身のそのままの思いで、こうするという決意が、それがシステムにも繋がっている大事なところです。そこを毎日毎日の祓いと鎮魂の中で、自分自身の誠を表現するというのかね。自分自身で感じてみるということが、たぶん大事なことになるのではないのかなと。

どうぞよろしくお願いいたします。