0156話:2017年07月06日

◇熊野

明日から熊野ツアーが始まります。僕も何十回か行ったのですけれども、熊野は甲府から遠く、時間のかかるところです。非常に辺境の地なんですけれども。

熊野の本宮が、熊野川の中洲にあった時代があるんですね。大正年間の頃、流れてしまいました。中洲の中にありました。祝殿の下も、中洲の様子を八畳の中に取り込んでいます。本当は水を入れて作ろうと思ったのですが、みんなから反対されました(笑)。水が腐らないようにするものを開発したので、水を入れて作ろうと思いました。その代わりに枯山水にしました。枯山水って、「かれさんすい」ではなく「かれさんずい」と読むのが古い読み方です。これは高濱浩先生から教えられました。

人が神を祀ったところは色々とありますが、ここは富士山の格好でもあるし、白い山の山頂に神を拝した格好でもあります。そして、中腹ですね。スサノオの歌の碑がある出雲の熊野神社も中腹にあります。洞窟とか岩屋もあります。だんだん下がってきて、川の中洲のところに立てて、今度は河原というか、そこに立てたり、又、庭ですね。今度は、宮殿式になるんですね。あらゆる神と人が交わるところの全てをここに網羅して組み込んで入れているということですね。この下はガラスになっていますが、まさに熊野そのものなんですね。本宮の一番古い形の祭祀をしているわけですね。だから、水の祭祀とも言えるんですね。

榊も熊野の榊です。江戸時代には、一生の内に、熊野は三度、伊勢は七度という諺がありました。僕ははるか超えてしましました。熊野だから、熊がいたというかね、それは信仰体系というか、トーテミズムというか、アイヌの熊の祭りもそうですが、多分あったんだろうと思います。どこにでも熊がいたというかね。

縄文犬も結局は熊用ですね。僕も熊の皮を巻いて、甲斐犬を雨宮さんがやってみろということでトレーニングもしたことがあるんですよ。それで猟には行きませんでしたが、猟は20代の頃やってみました。おじさんがやっていたので、猟をやっていました。ある時、間違って紅雀という可愛い雀を打ってしまって、それでやめてしまいました。それまで何年かやっていたんですけれどもね。要するに、狩猟と犬、あるいは熊という関係ですね。今日は熊野に行く人に挨拶してもらおうかなと思っていました(笑)。肝心なところを話しますね。

◇歴史の中に縦走している世界がある

要するに、文化もそうですが、生活も多重多層に拡がっていくんですね、人間の世界では。それが長い間、何千年、何万年と経っていくと、だんだんそれが蓄積されていくんですね。熊野に何が蓄積されているかというと、熊という意味のトーテムもあるし、自然の水や火の祭りもありますね。山には水の祭り、火の祭りがありますが、特に火の祭りをやりますね。

元々、日本は、国歌は、第一、第二「海ゆかば」という言い方もありますけれども、君が代ですね。君が代というのは、海の神様が、山の神様に対して、「寿(ことほぐ)」というかですね。大山津見神、大綿津見神という関係がある。「千代に八千代にさざれ石」の如くに、山のさざれ石というボロボロになるような石が、堅固な岩になるような時まで、あなたの世は続きますよねということを、ことほいでいるんですよね。だから、そういう世界があったわけですね。海と山の関係というか。それは須佐之男が海で、それが後になると、天照大御神の方が山になるという関係も出てくるわけですけれども。ポイントは歴史の中に縦走している世界があるわけですね。縦走は何が伝わっているかというと、それは動物崇拝であり、自然崇拝、五行ですよね。

◇縄文から弥生に移り変わる時の一つの歴史

先ほど言いましたように、水と火の祭りが必ずある。そういう信仰が世界から集まったのではないかということだから、熊野の火の祭りは拝火教というか、一番世界で古い火の神を祀っていたのではないかと言われるくらい、熊野の火祭りというのは古いんですね。だから、火を制御する、あるいは水を制御するということは、基本的に五行と一体となる我々は、五行を自然の神として讃えて、そして神の働きと1つになるということを代々やってきたわけですね。そういう中で、文化というものは形成されていくということですね。

ですから、当然、アイヌの文化というか、崇拝というようなものも、随分細かくあるということですね。氷河期にはエスキモーのような北方の民族は白熊が神なんですね。だから、姥捨て山というわけではないのですが、自分のおじいさんやおばあさんが、熊に自分の身を食わせて良いんだということでやる。そして、今度は熊を殺して食べるというように循環になっているということが古代にはある。さらに南下すると、今度は狼が一番見事な狩猟をするから、それで狼をトーテムにするわけですね。アイヌは、北方民族から来たので、その名残りだと思います。

そのように、一番大事な働きを神、あるいは動物として崇拝するという傾向がありました。ですから、熊野というものはある面では、日本の縄文から、それから新しい弥生に移り変わる時の一つの歴史なんですね。当然それが重ね合わされて、だから、縄文の時の人たちの神様を崇拝していた人たちがいて、その人たちの後、神武天皇の一族に託すわけですね。縄文の伝統が更に続くようにということで。

◇戦斗になる前の満州、朝鮮、日本(熊野)での交渉

要するに、国譲りのようなことを出雲も4000年、2500年前にしていますし、それから熊野もそういうことをしているんですね。それは民族同士で交渉するわけですね、事前にね。その交渉する人たちが、八咫烏と言われた人たちですね。ですから、満州族の金一族、ぬるはち王も、そういうものであったということですね。満州族が、同じ八咫烏を信仰する第1代のぬるはちという王様は、八咫烏に助けられたとあるんですね。高麗もそうだし、日本もそうですね。3点一直線ではないですが、3つが繋がっているんですね。満州、朝鮮、日本(熊野)と。それが一つの信仰体系となっています。

その情報員が、先に交渉するわけですね。こういう風にして、新しい社会形態にしますけれども、どうですかというかね。そういう戦斗になる前にそういうことをやっているんですね。しょうがなく反対となった時には、戦争になったということがありました。

自分たちの縄文の気風というか、信仰というか、それを必ず伝えるというかね。そういう約束でなっているんですね。それが日本の古事記にある瓊瓊杵尊もそうだし、それから出雲もそうだし、熊野もそうだということが言えると思います。こことの繋がりも深いところもありますので、その辺りも講義したいと思っています。

ありがとうございました。