0159話:2017年07月09日

【文月月次祭文(20170709)その1】

本日はありがとうございました。七夕に参加された方は何人いらっしゃいますか。7人くらいですね。非常に劇的なことが色々と起こりまして、楽しかったです。みんな雷雨で閉じ込められるということが起こりましたね(笑)。すごい雨でした。この上だけ降っていたんですね。甲府の気象台で調べますと、ここだけ降っていたそうですよ。それで閉じ込められました。僕が珍しく英語でもって、雨の降り方を言ったら、みんなに笑われましたけれども。間違っていたかもしれません。犬と猫が降ってきたという、It rain cats and dogsでしたっけ?土砂降りというね。丁度、雷が鳴ったんですね。危ないなと思ったら、やっぱりそうでした。経験があるんですね。

以前、百神を地場共鳴装置で測定したことがありまして、その時、百神をバラバラに測定していったんですね。最後に72番目の神様が、八雷神(やくさのいかずちのかみ)という雷の神様でした。八(やくさ)というのは、色々な光り方をするというか、上から下、下から上、あるいは横に光り、雷鳴も様々ということです。八(やくさ)というのは、色々な雷の落ち方とか、鳴り方とか、光があるという意味なんでしょうね。

10数年前、雷槌の神様というか、測定していたら、だんだん東の方から、音がゴロゴロしだしたんですね。それで3日3晩、雷が落ち、大洪水となり、この里吉の辺りは、観測史上初めてのことでしたけれども・・・。さらにこの7日に降ったのは、多分この上では、観測史上初めてくらいのものでした(笑)。

この地域は日本で一番晴れるところなんですね。この近くの明野というところがあって、そこが日本で一番晴れる場所です。そういうわけで一週間くらい前に、我々は祓いをすれば曇っていても晴れるし、雨が降っても雨がやむという偉そうなことを言ったら、鼻をヘシ折られてしましました(笑)。慢心から出たことを言いましたから、反省するまで、止まないで、みんなが閉じ込められてしましました。

白川は雨を止める、止雨(しう)と、雨が降らないと干ばつになるので、降雨の2つをやるわけですね。それがだんだんと儀礼的になり、次第に密教にやってもらうようなことになったわけですね。それはちょうど後七日御修法でもそうですけれども、真言密教を、宮中では取り入れていくということになるのは、やはり具体的な働きというか、自然を操作するというか、そのような働きが儀礼的になって、発揮できなくなるので、色々な力を借りたのではないかと思います。話がどんどん横道にそれてしまいますね(笑)。

七夕に雨が降ったということを、長々と言っても仕方がないですけれども、気がついたことがいくつか有りました。もちろん願立祭というところで気づいたというところで、これはSさんとお話していて、一番日本の七夕に関する神社の古い祭祀は願立なんですね。

◇宣言

考えてみますと、竹、竹という素材もどちらかと言うと、中国的なのかもしれませんけれども。竹に願い事を書くというか、これは宮中でもやっていて、今でもやるわけですけれども、やはり願い事を書くということの代表的なことであって、我々はロゴストロンというような形で、ソフトで願立をするということを考えますと、一番仕事と近い神事、あるいは祭祀ではないのかと思うんですね。

ですから、7月7日の日を願立ということと、ソフトウェアで宣言するのと一致するというかですね。祭祀と仕事が一致していることをまず非常に思いました。

今回、子供の七夕祭は次の日にいたしました。今は、節句ごとにやっています。3月3日はやりませんでしたが、5月5日こどもの日とか、今度また、十五夜にします。子供さん達を拝見していますと、ハッキリ確認出来るほど進化、変化していてビックリしました。雰囲気が一変しているというかですね。そのことは非常に嬉しいことで、親の方の日々のお祓いが、役に立っているのかなということを感じました。

願立で気がついたことは、七夕というのはどの神様が主宰神か、ということですね。よくわからないというか、元々、七夕の行事というのは、彦星と織女ですからね。物語が中国の物語であるので、星座というところに行くわけですけれども、少なくともそういう物語を、子ども達に聞かせるということも出来ましたけれども。

我々が祭祀をするにあたって、一体、どの神様だろうと考えた時に分かったことがありました。たまたま修験道の村山古道に行き、村山浅間神社に2日前に行き、ディジュリドゥーを、今度のオセアニアツアーに行くにあたって、富士山とオーストラリアのブルーマウンテンで鎮魂をやるんですけれども、その共鳴というか、そういう意味で、お祓いとですね、Sさんご夫妻に動画を撮って頂いたのですけれども。山開きが9日ということで、今日ですね、山開きの前に結局、七夕があるわけですね。そういう七夕というものの中に隠されていた神様というのが、実は磐長姫(いわながひめ)という神様であったわけですね。

富士山は、木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)という神様を祀っているんですけれども、その前は浅間(あさま)神社というか、浅間の大神という神様になるわけですけれども。浅間という意味は、小笠原先生によると、ア・サマ=シャーマンですが、木花咲耶姫は、後世に祀ったのであって、山の神様というのは、もともと大山津見神様であり、瓊々杵命と出会って、木花咲耶姫と磐長姫を嫁入させるわけですね。磐長姫が返されるということになるのですけれども、そういうことが隠されて、山開きの前の七夕に、そういう磐長姫を祀っていくようなことになったのではないのかなということが分かったというかですね。

もう一つ、浅間(せんげん)神社ということで、それは願立に、これはスルーして頂いて結構ですが、「宣言」するという意味と、浅間(せんげん)神社は、どうも同じなのではないのかなと、勝手に思っておりました。そんなこともありまして、宣言するという内容も、磐長姫を娶らないとなった時に、命が短くなったということが書かれているんですね。要するに、大山津見神は、瓊々杵命の千代に八千代にというか、これから天下ってこられて、長く命が続くようにという意味で、磐長(いわなが)、命が長く続くという意味のパラフレーズですけれども、磐長姫が意味していたのではないかと思うんですね。ですから、命を長く続けるということが、要するに、それが結局、不老不死となり、またそれが、かぐや姫の伝説に繋がっていくんですね。七夕が繋がる。

色々なことを言ってしまっていますが、要は、不老長寿というか、かぐや姫は、不老長寿の薬をおばあさん、おじいさんに残すわけですけれども、そのお薬を富士山で焼くんですね。そういうことがありますから、不老不死というか、健康ということに繋がりがあるのではないのかなということですね。まず、健康ということを宣言するということがあったのではないのかと思います。そして、子ども達が健康に育つという意味のお祭りになっていったのではないのかということでありました。

昔は、1年に2回しかあげなかった大祓を、7月7日には、白川最大値の3回あげてしまいました。磐長姫ということに、七夕ということで気がついてですね。

前から富士山の落石というのは、磐長姫の悲しみではないかと言ったことがありますが、今回は7月7日に磐長姫の涙を、土砂降りの雨の中で感じさせて頂きました。

・・・続く。