0167話:2017年07月19日

◇情緒、感情

昨日も色々とビジネスの最前線の方々とお話してみると、やっぱり情緒というか、感情をコントロールしないと、経済活動、ビジネス活動が出来ないと、そのことが先見的な話題でした。それを解決すれば、事業というものが上手くいくということでした。コンサルテーション的なことからいくとあるわけですね。それで感情というか、情緒をコンピューター上に作るということを、ずっと20年以上関わって、色々なものを考えてきたのですが、そのお祓いというものもそうですが、情緒、感情というものが階層的に、どういう位置付けになるのかというトレーニングも含めたですね。

結局、体の調子とか、上手くいった、上手くいかなかったというような軋轢とか、あるいは対人関係における、嫌なことや好ましいことがあって、神のこと仏のことというのは、似ているようだけれど違うわけですね。神や仏を他者と捉えると、そういう関係が生まれるんですけれどもね。

◇有り難いということを通り越して、お慰めする境地

昨日、この間、ヴィソツキー博士と簡易契約までいったのですけれども、それをやってくださった方からメールが来ていたので返信をしました。僕はほとんどメールの返信をしませんけれども(笑)。たまたま申し訳ないな、長く関わってくださったからお礼を言おうと思いました。

お礼というものを書こうとすると、決まりきった言葉になるということがよくわかります。定型文というかね。まずはお世話になりましたということ、そして、大変有り難うということ、これからもよろしくお願いいたします、というものが必ず入ってくるわけですね。そこのところがどうも、神様という存在を、我々は手に迎えるわけですね。手というか、全身に迎えるということをしています。その所作が神拝作法ですね。神が、榊に宿るわけですが、手を榊の形のようにして迎えていくわけですね。イスラム教でも、五体投地のように身体を伸ばして、神の前に身を投げ出すことをやります。

アラビア語で、

「ビスミー・ラッヒーム・ラフマン・アッラーフ・アクバル」

そういう祈りに、

「アッラーは偉大なり」をするわけですね。そういう所作があるんですね。そのように神様を迎えているんですね。

仲居さんを呼ぶわけではないですが、拍手をして神が来てくれるわけですね(笑)。神は偏在するのですがね。もちろんいつでも、どこでも遠津御祖神は、絶えず一緒にいらっしゃるわけですね。だから、後手で自分に拍手を打つわけですね。遠津御祖神が、今度は自己と一体となって神様を迎えているわけですね。一二三の祓いというのは、日本語を神様から頂いたというか、言霊を頂いたことの感謝ですね。考えてみると、神様に対して高い境地でいくと、天皇陛下は「とほかみへみため」だけなんですね。賢所では、「とほかみえみため」を40回ですからね。それは簡単にしているということもありますが、「えみため」天照大御神との世界ですね。伊勢神宮だったら、そういう神様にご苦労様ですということと当然、感謝という言葉は色々あるわけですね。お慰め申し上げますというか、それは境地としては、一緒に一体となるのですが、神様に対して、本当に申し訳ございませんという世界までいくわけですね。

仏教でも、最終的には、報恩感謝という言葉があるように、感謝、有り難いということ、対人関係にも起こりますが、神様、仏様に対しての最終的な世界というものは情緒の中でも階層があるわけですね。それは本当に有り難いということを通り越して、神をお慰めするという世界になっていきます。それは、ほとんど神が神に対する境地ということになりましょうけれども。我々がそういう境地を一つの人間関係に当てはめていくと、大概のことは、許してしまうというかですね。一神教から見たら神は、人を許すわけでしょ。

キリスト教的に言えば、一番大事な独り子を遣わせて、許すということをするわけですね。だから、神の愛の世界というものを人の情緒の世界の中に作り上げていくということを、それもまた人間の行為といえば行為ですが、そういう階層があるというかですね。そのことを理解しないと、なかなか人間関係も共にやっていくということも、分かりにくいかなということもあろうかと思います。

今、我々は簡単には、7感情とかになってしまいますね。女子大を昔、調べたら3つしか感情用語を使っていなかったです。だから、感情のトレーニングがないと、結局、人間関係も上手くいかないんですね。我々はそれを8000くらいの感情用語を色々と調べたんですね。膨大な感情用語辞典から、それを分類するということをやりました。少なくとも色々な感情があるということですね。

特に、我々が毎日の中で、ただ単に礼をすることではなくて、単に有り難い、ありがとうということだけではなくて、天皇様の境地としては最終的には、神様に心配をおかけして申し訳ないということで、お慰めするという境地のところで、礼拝の中でするというか、思いを述べられるということです。実際に、ポイントは、迎えた時に本当にこの手に、この身に迎えた、そういう境地が出てくる。ただ単に、儀礼的なものでやっているということから、それもまず必要なのですが、そこの形から儀礼をやっていると、その世界が開けてくるわけですね。そのような境地というか、そういうものを本当に迎えたという感じがすると、今度はそのハタラキに対して感謝や、先ほど言った有り難いということや、お慰めするというところまでの情緒が生まれてくるということが大事かなと。それを人間関係にまで拡げていくと、非常にみんなの心が落ち着くのではないのかなということを感じました。

今日もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。