0171話:2017年07月25日

Iさん、何かご報告はありますか?

●Iさん

週末に札幌に行っていました。地元のロゴシストの方々を含め、今回は100名を超える方々が集まって下さいました。当初の予測よりも多く集まり、今後の地方のロゴフェスの先駆けになると感じました。デジタルメディテーションで体感される方、その前に和の成功法則を読んで、ボーカロイドで体験される方が、非常に増えていると感じました。すすきので夜の仕事をしている方が、お店でかけると、みんなが素直に自分の感情を表現するようになり、まるで変わったということがあったそうです。朝、お祓いを唱えさせて頂いて、その辺の体感が自分自身でも深くなっているなということがありました。言霊の凄さというのか、言葉の力というので、何かを浮かび上がらせて消してくれるということを地方でやっている時に、特に感じることがありました。白川の神拝作法の素晴らしさを改めて感じました。

最初は鎮魂にしても、お祓いにしても、神拝作法にしても、形だけなのですが、ある程度のところで、まるで変わってきてしまうということがありました。それを全国の方々と体感できるのは素晴らしいと思いました。

【七沢代表】

◇はっきりと客観視できるということが意識進化の過程

ありがとうございました。

我々が色々と日本全国に行く時には、行っている人たちのことを考えるし、意識するというかですね。意識が九州に行ったり、北海道に行ったりということで、行かれている人たちのことを、そしてそこに集う人たちのことを考えるわけですね。だから、その瞬間に一種の客観視が起こります。我々は甲府にいて、自分の客観視をそんなにやるわけではないですけれども、伊邪那美が黄泉の国と高天原、あるいはこれから創造する世界というものもあるし、またそれを毎日のようにお祓いと、大祓の中で客観視するわけですね。

もちろん、全国一宮というのは、北海道まであって祀られているから、そういう点では確かに全てがある。あるいはその相似形が、北半球であったり、南半球、地球ということにもなるわけですけれども、その意識は拡げることは可能です。それから更に、太陽系とか拡げていくのですけれども、その関係性というか、はっきりと客観としての場所、北海道という場所とか、そこで行われる祓いというものは自分が普段あげている祓い、あるいは東京、甲府という関係を結ぶというのか、そのあり様を見るということが起こるわけですね。普段、甲府にいる人たちも思いを馳せるということが可能です。それがどういう関係になるか、はっきりと見えると言うか、はっきりと客観視できるということが大事な意識の進化の過程だと思います。

◇ありありと客観視すると一つの解決の時になる

ありありと他者という存在が見えてくるということが一番で、その中で、自分自身の中の他者という、一番見えにくいものを見るのです。そういう中でも、客観するものを綺麗にストロークする、あるいは見る、三次元グラフィックではないですが、どの位置からも見えるものというかね。最近の車はバックに入れる時、自分の車が全部、上から見えるような機能があるものがあります。そういう客観視をして全てを見る見方というものを、我々の中にある今日の話ではないですが、お祓いと鎮魂と言霊というものを外側にありありと見えるようにしていくということが、その関係性をしっかりと繋いだり、あるいは理解するということに繋がるのですね。自分がよく見えるということですね。視覚表象力や聴覚や触覚で、ありありと、ということです。

使徒の中にトマスという人が、イエスの槍が刺さった傷口に触って、血の跡が感じられなければ、イエスが復活したということを信じない、という現代の唯物主義の権化のような人がいたんですね。使徒行伝の中にあります。そういう具体的な体感をしないと分からないというか、神を触覚でも感じるという表現をするわけですね。もちろん、それは風の音になったり、渦のようになったりするという一つの表現ではあります。そういう感じ方というかですね。存在そのものに渡って体感するということが大事なところですね。

言霊にしろ、そういうものをどのように客観視するのかということですよね。書いた文字があるから、大祓は出来るし、鎮魂も見えるわけですけれども、やはり、布斗麻邇というものをどういう風に実感していくかということを徐々に学んでいくのかというと、毎日のお祓いの中で祝詞をあげる、あるいは布斗麻邇ということを考えるということは、そういう意味の客観視するわけですから、それが修行ということになるんですね。だから、毎日のことが修行になっている。漫然とあげるということをしないで、ありありと見えるような、あるいは感じるような、そういう部分というか、五感、六感を使ってそういうものを認識するということが、非常に大事ではないのかということを今日は感じました。

ですから、本当に自己自身の問題を解決していく、あるいは他者との関係で解決していくということは、ありありと客観視できるというか、その世界というものが大事ではないのかなと。亡くなった人や先祖もそうですが、ありありとそこに存在するというか、他者として存在するということが分かれば、一つの解決の時になります。必ずどこか捕まっていたりすると、全体が見えないわけですね、視覚的に言うと、それは一種の幽霊みたいなものですね、足だけ無いとか。

どういうことかというと、描ききれていないということなんですね。ありありと見えないということは十分な客観視が出来ていない。幽霊が幽霊ではなくなる時は、全体が見える時ですね。妖怪は妖怪としての役割が、そこで終えるわけですね。妖怪ということは、自分の中にその部分がくっついているか、同じくしているかで見えないわけですね。そういうものも幽の霊と言ったのではないのかなと、皆さんがありありと実体を掴むとそれは全て理解の中に入ってくる。そして、それは言うことを聞いてくださるというか、あるいはコミュニケーションになるというところに繋がっていくのではないのかと。

バッハにしろ、ベートーヴェンにしろ、音楽家というのは、ありありと音として出せるということが言えるのではないのかなと。この間、NHKでやっていました、ヴァイオリンの500年の歴史のストラディバリウスのような楽器を調べてみると、指向性というか、はっきりと音の全容を散らばさないで、ありありと対象に伝えるというのが名器というものなんですね。それも同じ意味です。散らばっていく音の全体を、ありありと、このところに伝えるということが出来るというかね。

ロゴストロンもそういう装置からの客観視を進めるということが、更に大事なことなのではないのかなと感じます。それが人間関係というものの正確な社会科学になるというかね。自然科学が、人文科学になり、人文科学が更に進んで、社会科学になって、みんなの一番ありありと社会が見える、一人ひとりの存在が見える社会になるというかね。ありありと、一人ひとりの存在が見えるような社会というもの、自由・平等・博愛が前提にあった関係性が、社会の中に構築されるというのが新しい時代のイソノミヤなのではないのかなと思いました。

ありがとうございました。