0173話:2017年07月27日

Tさん、昨日のロゴソロジーのことを少しお話しください。

 

●Tさん

◇現象と現実、現実と幻想

昨日は、現象と現実、現実と幻想について話しました。

普段、認識している現実というのは、現象とは別なんですね。現象は起きていて、自分が認識している現実というのは主観なんですね。現実は心の中にあって、現象は客観で外にあるんですけれども。それともう一個の勘違いは、現実を見るわけですが、現象を見て自分の中の現実が作られるわけですけれども、現実よりも現象の方が圧倒的に広いんですよ、当たり前なのですが。

現象は宇宙全部で、自分で意識する現実というのは、その内のごく一部です。つまり、例えば、現実というのはここに立っていて、みんなの前で話していて、みんな座って聞いているということが現実です。ですが、それを支えている現象というのは、第1に地球があったり、宇宙があったり、すべての生命の活動があって、現象としてある中で現実があります。要は、その時に現実というのはごく一部なので、その他の現実は、仮想するしかないんですね。

例えば、祝殿が今から爆発することはないと仮想しているんです。仮想で出来ているんですね。その結果、仮想が、例えば昔だったら、地球は亀の上に乗っているとか、そういう仮想をして、それは幻想になっていくんですね。思考実験と幻想の違いなんですよ。科学は思考実験なんですけれども、宗教は幻想まであり、ここに大きな違いがあります。そこは厳格な違いを持っているということがあります。幻想が駄目ということではなくて、幻想によって、全部の情報を網羅する、ありとあらゆるパターンがあり、幻想でも網羅していくと、宇宙全部に到達し、覚醒するんですね。情報量によって、幻想が増えて覚醒するというかね。それで本質に戻って、また現象化するということですね。

そういうことを昨日、3時間かけてお話しました。実践的に使えるロゴソロジーということでやっていて、お客様の反応として悪くなかったと思います。ということをご報告いたします。

【七沢代表】

◇現実をありありとみる見方の必要性

我々は現実、現象というものも概念としてあるのですけれども、現実ということでは、本田宗一郎なんか、現場、現実、現物ということで、企業活動も見えるもの、正確に科学技術として証明されたものとか、そういうものを前提として、企業というものの活動を考えた時代もありました。現代において、それは科学でも、真理に基づいた真実のものとして、そういう追求の仕方、生き方をみんな願っているわけですね。その真実の中の真実というか、トゥルーオブリアリティー(true of reality)という言い方をします。

真実を探すというのは難しいし、それを実践するのは更に難しくなるんですね。そういうものをどこまで宗教で、今で言う一神教が真実だと思っている考え方と、すべての存在というものに働きがあって、一つ一つがあるという捉え方をするような多神教とか、ある面で真正面から最後のところでぶつかっているところがあるんですね。そういう時に、どのようにその問題を考えるかというと、傾向にもよりますが、要するに、最初に発する意志というものがバラバラだと、全部バラバラになってしまうし、上手く統合すると良いのですが、それが十分な知識というものがないところで繋がると、今度は妄想ということになります。意志をスムースに続けることが出来るならば、一つの解決方法になるのですが、持続せる意志というか、持続していくことによって、パーソナリティとしては、人格としては安全に存在出来るということがあるんですね。一方で、全てを分けてみるという見方をした場合は、一見、科学的ではありますが、統合しないとバラバラのままで、何も現れてこないということがあります。そういう難しさがあって、丁度、今、この時期の文明の転換期に、科学の発達と共に現実をありありと見る見方の必要性が出てきたわけですね。その見方が出てきたのですが、まだ充分に見るということは出来ていないんですね。現実を認めたくないから、何かを信じるという宗教的思考というのが長い間あったわけですね。

それは四苦八苦ではないですが、苦しみから逃れる為にしてきたのですけれどもね。今の時代では、そういう苦から逃れたいという人間の心的傾向があるのですけれども、それをじっと見るということが宇宙というか、自分の外界の全てをありありと見るということが、まず出来るかどうか、そして自己自身の中を全て見ることが出来るかどうかということが、そういう客観視するという見方を取れるかということが、一番大事なことなんですね。それももちろん見るということの中に、自己主観の範囲の全体を掴むとか、更に社会の共同幻想とかになっていることも多々ありますから、この時代の中で全てをありありと見つめるという見方をしていかないと決定的な解決にならないというかね。だから、事故が起こらないというように、危機管理なんか99.9%は起こらないと言っても、案外、一番これで大丈夫と思っても、0.1%のところで起こるということがあります。

それは宗教にも「一厘の仕組み」ということを言った、江戸から明治にかけての教祖がいますけれどもね。だから、一厘の仕組みでひっくり返ってしてしまうということも起こってくるんですね。その転換は人間の技ではないのですが、信仰してそういうものを変えられるという時代でも無くなってきたんですね。だから、その辺りが非常に今、難しいところです。

◇宗教を信仰しないで真実に至るという道

宗教を信仰しないで真実に至るという道は、6000年くらい、宗教を頼りにして人類は生きてきたので非常に難しいところなんですね。その中で古神道の捉え方は、全てが平等で、全てを働きとして捉えて、その時その時の必要な働きを頂く、あるいは一緒に迎えるという捉え方でやるということが、非常に大事な方法論になると思います。そういうものの捉え方を、野蛮とか、原始の考え方なんて言う人もいますが、実はそれが一番、現実的というか、進化した人間の捉え方になるのではないのかと思うんですね。

今の時代が、分裂と幻想の中からサイコパスさえ出現して、人類をコミュニケーション出来ない世界に閉じ込めようとしているけれども、そこのところの治癒と解放をしないと、みんながより良く生きる時代は来ないのではないでしょうか。そんなことを感じております。日々の実践の中で、それを行うというか、毎日の祈りというよりも、どういう意志で生きるかということを宣言して、そしてそれを一日がどうだったかということが、それが自分自身の日報になり、会社というか、みんなの役に立つような形になると、そうすると毎日の祓いや鎮魂が積み重なって、非常に意志の出処がうっ滞なく、正確に出ていってまとまり、現実化の速度が非常に速くなるのではないのかということを感じます。

今日はその辺りのことを感じたことです。ありがとうございました。