0175話:2017年07月31日

土曜日と日曜日にデジタルメディテーションファシリテーターの講座がありました。お疲れ様でした。講座の感想はありますか?

 

●Tさん

初日に講義させて頂ききました。メインでは、OさんとIさんでやりました。

非常に皆さんモチベーションが高く、講義もそうでしたが、懇親会の時もそうでした。学ぶ側から教える側に変わるので、本当に変わりますよ。そしてそれをやることで、皆さんもの凄い意識進化をするチャンスなんですよ。それを自覚してやってくださいということをお伝えしました。自分自身の意識進化レベルが問われるので、しっかりと学び、意識進化していって欲しいということをお伝えしました。

 

●Kさん

皆さん、真剣に先生になったつもりで講義をしていたのをお聞きして、まだ間違えるところもありますが、そこは皆さんでシェアし、提案しながら真剣にやられていました。女性の方は、自分自身が意識進化したいということで参加している方が多かったです。男性の方は、やるぞ!という感じで、ファシリテーターとして積極的に活動していきたいという感じでした。

 

●Sさん

今回は白川の門人の方であり、ロゴストロンユーザーであるという方の参加がほとんどでした。もちろん、過去2回、メディテーションということで、新たな展開であり、皆さんそれぞれが意識進化するということもありますが、門人であるということと、ロゴストロンユーザーであるということは既にそういう環境であり、それなりに意識進化を伴っての志の高い集まりのように感じました。

更に、既に用意されている説明知を伴いながらのデジタルメディテーションということで、非常に向学心があり、公の為のメディテーションであるという自覚の元に、皆さんが展開していくような姿勢が感じられました。

【七沢代表】

◇神を迎えるということは、悟りに直接繋がっている

ありがとうございました。確かに教えを受ける方から教えるという観点に立って、自分の思考とか、自分が何を得ているのかということが、それによって分かるわけですね。主催者側からすれば、やはり、わざわざメディテーションにデジタルということを付けるということは、我々はいつもロゴストロンというデジタル機器を使ってということ、あるいは祓いや鎮魂というものを落とし込むということは、要するに、もちろん科学的であるということや、自動的に1つのシステムになっていくということなど、客観的な知識になっているということが言えると思います。

もちろん、やる本人はデジタルという宣言をするということは、科学的であり、知識というものをみんなで扱って、結果は、知恵やみんなが共有できるものになるということをやるわけですけれども、そういう宣言をするということは、特に今までメディテーションで出来なかった部分を実現できているということになるということですね。そのメディテーションの齎すものの根底には、悟りを実現することが、特に3000年、6000年とか、縄文の時に、そういう概念があったかどうかは分かりませんが、少なくとも神を迎えるということを当たり前にやってきたところからしますと、神を迎えるということは悟りに直接繋がっていると思います。ですから、今までの宗教的修行の時代で言うと、悟りの階層ですね。今まで、そういう禅が最終的に辿り着いたところは、あるいはインドの梵我一如、ヨーガというヒンドゥイズムが辿り着いたところは、結局は悟りの問題というかですね。

悟りということは、りっしんべん、つまり、心に吾(われ)と書くわけですが、そういう漢字の意味合いがそれぞれあるというかですね。吾という漢字は、五と口ですから、意味があるとは思います。ポイントは、我々が白川でやっていることの前提というか、この間も、一昨日も白川の門人が鎮魂をやり、世界に向けて表現する時に、デジタルメディテーションと言った時の全体像というものは、やはり当然ヨーガと禅を無視するわけにはいきません。もちろん、我々の中に白鳥先生や大澤先生がいらっしゃって、禅の世界をまざまざと見せて頂いているわけです。そこにあるのは、悟りの深さというか、最初の悟りがあって、何回も悟らないといけないということですね。それと、デジタルメディテーションでは、誰にでも、何時でもどこでも出来るということを表明することが、悟りというテーアを通じて、こういう風にします、解決できます、と宣言しなければいけないわけですね。

◇自分自身が宇宙、地球と一体だと確認、確証するところが始まり

その時の最初の悟りの階梯というか、我々が普段やっている自然と一体となるということがあります。自然という言葉自体が、不自然ですが、nature(自然)という言葉は400年くらい前に、西洋にそういう概念が出てきて、日本ではそれで自然という言葉が作られてきました。多分、明治以降だと思います。そういうように翻訳されますが、日本では天然という呼び方になります。天然にしろ、自然にしろ、それが我々が五行、木火土金水で表現しているわけですね。その五行が最初の、確かに五行としてあるということを掴むということが、最初の悟りということになりますね。それが言霊で言うと、あいうえお、であると。

木火土金水は、自然にある階層であるということを最初に掴むということが、悟りの第一歩になります。自分自身が宇宙、地球と一体だと確認、確証するところが始まりというかですね。まずは、自分自身が地球の土から出たことと言いますか、そういう土から生ずるということを知る。もちろん、土自体が生ずるということは長い時間をかけて土になったわけですね。岩石がバラバラになって、壊れて土ということになるわけですが、土というものと自分とが、我々は普段は、フトマニの里の土を見ているわけですが、それが汚いもの、外にあるものということではなくて、土が、要するに、自分と一体のものであるということですね。

聖書のように、人類の始まりがアダムが土から出てきた、というような感覚だけではなくて、土というものと自分が一体のものというかですね。電子や分子の構造的に、がらがらに構築された構造であるということは、現代的な1つの科学ですよね。そういう隙間だらけのところに、2兆個のニュートリノが、太陽から降り注ぎ、地球の中心から宇宙に抜けていくということを言うわけですね。そういう科学的なことも、古代から様々な呼び方で、それを観音経の中で、観世音菩薩が注ぐものを、甘露の法雨という呼び方をしていました。

そういうまずは、我々が目に見えるような土ですね。47億年かけて出来上がったものであろうと思いますが、そういうものと自分は一体だというかですね、そういう悟りなんですね。

◇五行というものを掴んでいく

それがもちろん、我々はまず、ほとんど70%は水ですから、水ということも最初に感じるということですね。如実にというか、五行というものを掴んでいくということを普段から修行としてやっていくということで、その悟りが徐々に始まるというかですね。もちろん、それがデジタルであるということが最初で、次の段階で知識というものを扱う時の大事な役割なんですね。ですから、五行というものと同時に、人間が五行の働きをしているというかですね。それは普段の知というか、考えたりすると、考えるという言葉自体が神に還るということですね。それが考えるという言葉という意味論もありますけれども、少なくとも考えるということの一番の根っこにあるものは、デジタルということを自分自身がそこに思うというか、そういう意味のデジタルメディテーションなんですね。階層的にはそういう意味合いがあります。

それが今度は、様々な人間の出てくる感情というものと1つに繋がっているというかですね。感情が自由になる、統御されるということが次の悟りになるんですね。それが広がって、愛憎好悪とか、そういうものが広がって、今度は愛というものが、1つの統合された、というか、1つの魂(たま)になっていくということですね。魂(たま)になっていくということは、1つの精神ということですね。精神になるということは、五魂、魂(たま)を実感するということで、それもまた悟りですね。

そういうものが五行にあって、またその魂(たま)と魂(たま)を繋げていく全ての物質や思考、言語というものは、1音と1音で、2音になるように繋がっていくということが、またそれが霊というか、結合エネルギーであるということを知るということで、また人間が神、宇宙というものの働きというものは、また梵我一如ということが、神と我の自己が霊という働きの上に結びつく、その凡を、自分が迎えるように繋がっていくということですね。そういうものの全体系が、日本の縄文以来にあるということなんですね。それは当然、最初の五行としても、そういうものを掴んでいくというかですね。そういうことが大事な道と言うかですね。ですから、特にメディテーションが大事にしている部分は、自己自身を迎えるということもさることながら、自分自身のところに情緒や神を迎えるということをやることで、最初の自然というものと一体となった、まずは五行というものが確実にフラクタルな、非不連続で存在しているんだ、ということを知ることですね。それが最初の悟りということになります。そういうものを目指していくということをやろうということですね。

◇何かを掴んだ時に、端的に最初は充分ではなくてもまず言ってみる

ファシリテーターが、最初から全て分かっているということではなくて、感想を読ませて頂いたのですが、やはり自分が教えるという立場に立った時に、自己自身が、自己自身に学ぶということが客観視できるということを感じている人が多かったです。順番をおって、そういうことを1つ1つ確実に、自分のもの、あるいは自分の感じたものが、みんなの共有の知識や知恵になって、更に拡がっていくというかですね。ですから、一番良いのは、自分自身が何かを掴んだ時に、端的に最初は充分ではなくても、まず言ってみるというかね。そして、みんなの共有の知恵に変えていき、大きな拡がりが出来るということになります。ですから、仏教でも、自分が悟れば良いんだということだけでは広がらないんですね。

みんなも自分が、今の段階で感じたことを表明して、そこから1つ1つ、それの広がりが出来ると、またそれが自分自身が言うということにおいての客観視で、更にその知識を運用できるようになるということが知識の役割であり、デジタルメディテーションということに繋がることではないのかと思います。ですから、名前で表現するということは、名は体を表すではないですが、名が1つの働きを明確に出しているということになるんですね。そういう意味での、自己自身が毎日、祈りのような自分の決意表明ということを一ヶ月に1度やりますが、少なくとも客観視が起こって、それがすぐ自分に入ってくるということですね。それが自分の中でも行えるし、また外からもそれを言って頂けるというか、感じて頂けるということが、大事なところではないかと特に思いました。

また一週間よろしくお願いいたします。ありがとうございました。