0178話:2017年08月04日

Sさん、何かありますか?

  • Sさん

今、季節柄、色々とうっ滞しやすい時です。お祓いに参加していますと、脳内言語の解体が進んで、更にそれが循環し、統合されるというような説明知を、体感と共に確認できました。そういう意味では、時空間を超えた祓いというのは、自分なりに階層を捉えることが出来た祓いとなりました。

 

【七沢代表】

◇見えないけれどあるもの

精神とか、魂とか、五魂もそうですが、見えないわけですね。ですから、バーチャルなものと思うかもしれませんし、五体以外にはないというか、五体の感覚というか、音とか見えるということの、本当に見えているかどうか分からないというのは、今の科学の研究のテーマでもあります。言ってみれば、五感で見る感じるというのは、その周波数を探すのが大変と言えば大変ですが、一方では、時間もそうですね。時間も無時間という言い方をしたりしますが、概念としてあるのですが、それを見たり感じたりするのは五感の中では、不可能なことのように論理的にも、五体が五感で感じる分にはいいのですが、それ以外は分かりにくいというかですね。

最初から分からないものだったら、分からないものを分かる機能があるのではないかということが、第六感とか、そういう様な捉え方で理解しようとするということですね。それは必然と言えば必然ですが、無いものは、一種のバーチャル、あるいは虚、空想、想像、妄想ではないのかと。それを巡って、人間が思考するということをやり出してからいっぱい考えたのだと思います。それが人間の哲学とか生き方ということになっていくわけです。もちろん古代でも、見えないものが見えるとか、見えている場合もあるというかですね。それのどこまでが見えているのか、どこまでが見えていないのか、というややこしい関係にあるんですね。見えないものは見えないというようになるわけですね。その中に、祭祀で言えば、顕祭というふうなものは、顕ですから、顕れて見えるということですね。Sさんが神官として所作をされる、あるいは、献饌をされる、祝詞を読まれるということはある面では見える、顕ということになります。その反対のところに幽という祭りがある。幽祭というように言います。白川はどちらかと言うと、顕祭ということでの役割もありますが、修行とか、そういうことはほとんど幽祭の中身になります。

神、それ自体が見えるとか言うわけではないんですね。自然も神ということになっているので、見えると言えば見えるのですが、神の姿と言った時に、例えば、水と言っても水の神と言うと分かりにくいわけですね。水自体が、水蒸気と氷と液体をとっているわけですがね。それは物質には珍しい三態をとっているわけです。見えないと見えているというものがあります。見えないけれども、あるわけですね。

今、こうして話していますが、たぶん水蒸気の泡がいっぱい出ています。中には、ツバではないですが、それを皆さんは、私のツバを受けているかもしれません。これくらいの空間だと、10分も話していると、みんな受けていると思います(笑)。言ってみれば、見えないわけですね。だけれども、あるということを人間は感じることが出来ます。

◇見えない世界を創造した神や仏を五感で見えるようにすることで掴む

元々、神を祈ると言う形の古代の姿はいっぱいありましたね。もちろん、人間がいろんな土器、縄文の火焔土器なんかは、火の姿をそのまま表そうとしたと言いますけれども、その辺の努力ですよね。長い何万年という努力でもって、見える、見えないというギリギリの表現をしていたと思います。神様は、なかなか分かりにくいわけですよ。神様を祀ると言う鏡は、究極は天皇の御鏡御拝ですから、天照大御神と一体となった天皇が、自分自身に礼拝するというものですね。分かりにくいですね。

天皇の体と姿と天照大御神が一体となったものを礼拝するという儀式まで残るわけです。仏教なんかで言うと、最初は仏像は無かったんですね。描くものは、最初は土に仏様を描いて、それに花を投げて供養するというかですね。土もだんだん色のついた砂を作りまして、それで形を作るというようなものとかが、だんだん仏像になっていくわけですね。私は仏像を作る釈迦族の方たちと親しかったので、100体を超える仏像をネパールから送ってもらって、日本の人たちにお分けしたということもあります。立体の像になっていくわけですね。神道もそういうものの影響で、神像というものを作ってお参りするようなことがありました。神仏習合ということがあったわけですね。

元々、器の教えですから、剣であったり、鏡であったり、玉であったりしたわけです。鏡も自分自身の姿ではないですね。外界を映している存在。剣もそうですね。武というよりは、ほとんど光り、己を映すだけというか、そういうように形をとらないというか、偶像崇拝にならないような形であったんですね。ですから、五感で見えるようにするということで、見えない世界を創造した神や仏という存在を掴み、知らしていくという歴史があるということですね。一神教は進化したというか、時間が経ってくると、神を呼ばなかったり、神像というものは作らないというかですね。たぶん以前には、モーセの頃には、ユダヤ教では、偶像と言うか、この場合は牛などで作っていたというか、それを神の神示ですよね。エホバの神の神示によって、偶像というものをやめるということになったんですね。しかし、なかなか止めないから、モーセが神様との契約ですね。石に刻んでくれた契約を神が作ってくれました。それを偶像にぶつけて壊してしまうんですね。壊すので、もう一度貰いに行くということになるんですけれど、そういう見えないものをしっかりと掴もうと。

ですから、神様の名前を呼ぶということもしなくなるんですね。呼んだり、文字に書いたりするということはもってのほかだと。見えない神様を心の中で迎えるということに、だんだんある面では進化していくわけですね。一神教の中でキリスト教も困ったわけですね。やはり、救い主というものをどう描けば良いかということに困って、十字架にかかったイエス様を拝するというかね。カソリックがイエスを産んでくださったお母さん、マリアの像と、イエスの子供の時の姿を拝するというかですね。どうしてもそういう部分が必要なんですね。神の愛というものは見えないので、そういう存在をとるわけですね。愛に近いものを形にして、そしてそれを拝する、理解するということをやっているわけですけれども。

◇見えないものを見えるようにしていく最後の修行

理解をする時に、白川というのは宗教的な最後の修行と言いますから、見えないものをありありと感じるようにする、あるいは、それを見る、それと一体となるということが審神者であったり、神代であるんですね。これはこういう神の働きであるということを解明するということが審神者の役割なんですね。最後の修行というのは、見えないものを見えるようにしていくというワザになるということです。

霊というようなものは、瞬間に見えて、瞬間に消えていくようなものを霊と言うような言い方をするのかもしれません。幽の方が見えないものだというか、霊というものが見えないと思われているので、霊がスピリチュアルというものなのか、外国ではスピリチュアルということと、魂、ソウルというものとの違いが区別がつかなくて、人間というものの定義が出来ないんですね。見えないということを定義するということで大混乱になるんですね。そういうこともありますけれども、一応、幽と顕、幽という見えない世界での全容というものを見たり、つぶさに世界を掴もうということですね。

もちろん、言葉も音には聞こえる、口の格好、身振り手振りのように視覚にも文字として映るわけです。言葉も目をつぶったら、音は見えない、耳を塞いだら、聞こえないということになるのですけれども、ご修行というものも目をつぶり、感覚を手にして、耳はお祓いを聞いているということの中で、最低限、集中して見たり、聞いたり、感じたりするという修行をするわけですね。それが最後の修行ですね。ですから、五感を超えて、見えないもの、聞こえないもの、幽のものを掴むということが主な修行ということになります。その辺りが祝殿講習というもので、そういうものが中心となってやっているということですね。

なかなか難しい行ですが、見えない、聞こえない、感じない、ここに座って、8〜14のチャクラを触っても感じません、分かりません。そういうものが迎える、見えない幽体というか、そういう存在です。それは背中合わせになっていても、どういう存在としてあって、その言葉というものが生まれてくる元というものが、布斗麻邇とか、一種の設計図というものがあって、それを見つめる、あるいは感じようとしているわけですね。それが主な修行であるということがあるわけですから、その辺りが単なる空想で何万年とか、何千年とか続くわけがない。ありありと分かるから、そういうものが残っていたということですね。そういうことで、その辺りをしっかりと学ぶ機会がいくらでもありますから、これから学んでいって欲しいと思います。

ありがとうございました。