0180話:2017年08月06日

Sさん、久しぶりですが、体調はどうですか?

 

●Sさん

皆様にご心配とご迷惑をおかけしました。また、お気遣いありがとうございました。きっかけは、物理的な傷から始まったのですが、精神まで弱ってしまって、一時は死を覚悟したほどでした(笑)。どんどん弱気になっていくんですね。

最後は、夜明け前が一番暗いという感じで、これで復調できるぞ、というところで、最後の3日間が一番辛くて、アンパンマンみたいに腫れていたのですけれども、最後の最後には膿が出てきて、別天水とか色々とやっていましたが、最後はゼトックスをガンガンふりかけるということをやっていたら、それがパッと出てきました。その最後の3日間が一番辛くて、やっと治るぞ、というところでくじかれたので、なんだこれはという時に、最後回復して話せるようになり、ここに来ることが出来ました。ありがとうございました。

 

【七沢代表】

そういう時は、大巳貴神、少名彦神をお迎えすると良いんですね。神様を迎えると治癒が早いですね。無事治って良かったです。

◇世の中の全て顕祭・幽祭=1

最近、はふりめくで言っていることは、顕祭と幽祭ということですね。顕祭と幽祭で1ということですね。顕祭・幽祭=1という数式は、世の中の全ての数式に繋がるんですね。科学にも繋がります。科学も結局は、虚像を見て、真実と思っているわけですね。極端に言えば、分子構造から電子とか素粒子とか、誰も見たことがないですが、虚像でしょ、見ているにしてもね。そういう虚像は、幽ですね。虚と実、負と正とか、見えるものと見えないものが対立構造で、今の社会の中で構成されています。ソフトウェアもそうですね。中はある面では見えないわけですね。

0と1とかで信号で出来ているんですね。大きなコンピューターで光が点滅したり、ということでしたらわかりますが、それで計算しているということではないですね。サヴァン症候群の人でしたら、中が瞬間に見えるかもしれませんが、またトレーニングしたら出来るかもしれませんが・・・。ロゴストロンの発信も例外ではありませんね。1万分の1秒ぐらいで、1語の発信のスピードですね。それも可視化した方が良いかもしれませんね。そして、電子顕微鏡と同じように、コンピューターにも同じように、いかにも見えるかのように可視化すれば良いのではないかと。それはとても役に立つわけですね。

私は見えないものと見えるものがあるということを、子供の頃から知っていたのですが、そういう見えないものの代表として、神という存在があるということですね。だから、スピリチュアルというのは、それをどうしても視覚表象力で、耳で聞こえることを根拠にして、そういう表現をして自分の主観的な能力をひけらかすと言ったら失礼ですが、示して、色々な占いや、そういうものに自分の世界に引き込むということをするわけですね。だから、舩井先生がスピリチュアルは駄目ということを遺言していたわけですね。要するに、見えないというものは見えなくて良いんですね。聞こえなくて良いんです。

◇「見えない」「見える」組み合わさって体験するのが白川

だけれど、見えないものがあるということ、見えるということがあるということが組み合わさって体験する、それがまさに白川であり、神という存在の、見えないということの代表が神なんですね。ですから自然は、ある程度、空気があるであろうはずの空とか見えているし、無いと言っても良いし、水も見えているけれども、水の中にいたら見えないということもあります。だから、水の中で水を求めるという諺が出てきます。要は、見えないということがややこしいですけれども、分かろうということを人間というのはやっていくということなんですね。

唯物論的なものから見れば、無いものは無いということ済ましてしまいます。科学がそういうところでないところに入り込んだから、新たに思考実験や証明を、さらに出来そうな感じで、その入口に立ったのではないかということが言えるわけですね。まさに、白川というのは見えない祭りをするわけですね。修行もその一貫ですね。

人間が幽祭・顕祭をしているのですが、見えるということの視覚表象力、それから聴覚を結んで、触覚を塞ぐなど、いわゆる五感ですね。五感を止めているような状態ですね。それで見えないものを見たり、聞こえないことを感じたりすると。特に見えるということは、想像したり、妄想したりということにもなりますが、それは全然問題ではないのですが、そういうものに頼らないで掴む、という技が、神を掴むという白川の持っている手法ですね。それが修行として、あるいは祓いとして起こるということがポイントになります。ですから、幽というものは、哲学的に言うと、戦前では鈴木重雄(すずきしげお)さんという哲学者が、『幽顕哲学〜日本的性格の基礎理論〜』をあらわしました。日本の哲学というのは、幽と顕の哲学ということを言ったんですね。

禅なんかでも、空ということを表現する時は、円相というものを書かないと空の概念を表現できないです。ただ「くう」と言うと、漢字語では、食べる「食う」なのか、そらの「空」か、無に近い「空」なのか、色々とあるんですけれどもね。空ということを言うわけですね。四隅の空間をこうするわけです。それで書くと、言霊になると、それにチョンを入れるわけです。自分がいて、宇宙があるということになります。そういう記号論ということが出てきます。記号も見えないものを見えるようにする働きということですね。見えないということの神というものの、それが我々が1つになっている遠津御祖神から五行の自然の神から、だんだん見えないというところにですね、向かいます。

働きとか、意味というのは、なかなか漢字とか、言葉で言わないと見えないけれども、そういうものを国津神と呼んだりして、天津神を迎える元を形成していきます。天津神というものの記号というよりは、音そのものに落とし込めるということなんですけれどもね。そういうものを頼りにして、見えない働きを確認する、掴むということが白川のご修行であり、幽祭と顕祭で1つだということになるんですね。

ですから、こうやって自分が一人で神代になって修行するということは、審神者から見たら、見える神代の修行と、見えない神がそこに一体となっている状態を確認する、それが白川のご修行であり、白川の幽祭と顕祭で1つになるということです。幽と顕ということは、そういう2つを重ねるということになります。ですから、確かにそれを掴むというのは難しいかもしれませんが、ありありと感じる世界というものであるということになります。

そんなことが今日の感じたことです。ありがとうございました。