0188話:2017年08月17日

◇先祖を清めるということは、自己自身を清めること

盂蘭盆会(うらぼんえ)と仏教では言うのですが、お盆休みは出来ましたでしょうか。

元々、先祖を迎えたりするということは、本来は神道で、普段、我々がやっていることですね。遠津御祖神を毎日迎えてお祓いをあげています。もちろん自分自身が生きた遠津御祖神ということでもあるわけですけれども、そのように迎えたり、あるいは主に清めるということですよね。先祖を清めるということは、自己自身を清めることなのです。自然をもそうですよね。自然も人間が、今は汚していたりするのですけれども、その清める対象としての自然も五行の神ということであるわけですね。

火も、原子力という形で、汚れが漏れ出したり、水も土も穢しているわけですけれども、木も燃やして少なくなったり、水も汚染したりですね。木火土金水、地水火風空という自然というものの存在が神であるわけですけれども、それを汚しているということであります。先祖というものもそうですよね。色々と悲しみや苦しみを持って亡くなるということは1つの穢れとなるわけだから、清めなければいけないということになるのですけれども。

◇「神清まらずば人清まらず、人清まらずば神清まらず」

もちろん神様と言うと、国津神・天津神になるのですが、天津神も、いつも言うように、めというか、「諸神御禊の大み時になりませる」というように、要するに、伊邪那岐、伊邪那美の時に伊邪那岐命というのは、百神で言うと、16番目の神様です。17番目の神様である伊邪那美命が、火迦具土神(ほのかぐつちのかみ)をお生みになって亡くなってしまいます。伊邪那岐命が黄泉の国に伊邪那美命を訪ねた為、穢れました。その穢れで、伊邪那岐命が身禊ぎをしないといけないということで、中津瀬で・・・、上津瀬の方は早すぎて駄目で、下津瀬の方は淀んでいるということで、真ん中辺りの中津瀬で、身禊祓をするという場面がありますけれども、要は、天津神も清めている。だから、清める神様が一番強いのかもしれませんよね。

住吉の海の神様も、底筒男、中筒男、上筒男ですけれども、祓いも火打もそうしますよね。あるいは、瀬織津姫から速開都比売、気吹戸主、速佐須良比咩というような、身禊祓の4神も同じように非常に強い神様ということになりますが、そういう神様も、神様の働きにお願いするというような意味合いで、その結果、天津神の最終で生まれてこられたのが、天照大御神(98番目)、月読命(99番目)、須佐之男命(100番目)です。須佐之男命は役割を持って、地に下りますけれども、そういう須佐之男命を先頭に、国津神も当然、大祓という形で祓いをするということになります。ですから、白川に伝承されているものというのは、「神清まらずば人清まらず、人清まらずば神清まらず」ということが、言い伝えられて残っているのです。そのくらい我々が清まるということが、即ち、神が清まる、神が清まるということは、人が清まると・・・。

神が清まるということも人が清まるということも、祓いに始まり、祓いに終わるということは、そこを強調して、我々が普段から祓いをするということの役割は、まさに神を清めるというところまで至ります。ですから、普段の心の態度は、白川では慢心するなということになるわけです。俺は神を清めているんだと思ったら、大変なことになりますからね。

◇神仏混合・・・神道の道、おみちを、仏教の仏様の言葉で当てる

白川を実践するということは、例えば、禅でいう悟りとか、そういうようなことも、今回も色々とありましたけれども、広く仏教で言う悟りということは、言ってみれば、白川から見ると、神の世界から見ると、例えというか、仏教という仏様の言葉でそれを説明しているというか、当てているというかですね。神道は全然、神々の成立の体系があるだけで、言ってみれば平安清明以外、何もないわけですね。どうしていい、こうしていいということは何もないわけですから。

そういう意味で、仏様というのは、ひとつのこうありたい、こう出来るということについての一種のミッションみたいなものが追加された言葉になっていますから、それを使わせて頂いて、それを当てて、神の働きの説明にしているというようなことです。ですから、神仏混合というのは、別に神と佛をごちゃ混ぜにしているわけではなくて、神道の道、おみちを、仏教の仏様の言葉で当てているという意味なんですね。だから、仏教はどちらかと言うと、漢字のようなものですね。漢字は日本に入りましたが、漢字語として入っているわけです。言ってみると、仏教も時間が経っているから、仏教用語として神道の説明知として入ってきた、あるいは日本語の中に入ってきたという風に云えるかと思います。

そういう悟りというようなことも含めて、悟りということがあってもいいのですが、そのこと自体を問題にしているわけではありません。そういうところも、非常に傲慢になると言ったらおかしいのですが、慢心するということはいくらでも出来るんですね。そういう教えというか、教えがないから、自分が中心になって、主観的になっていけば、そういう表現も出来ないことはないと。ですから、みんなが悟っていないですねと言ってもいいですし、他者に悟っていないと言っても全然、構わないと。

仏教は黄檗(おうばく)みたいな話は滅多になくて、面白いから、そういうものが経典に載っているわけですね。お師匠さんが霊的なことを言うから、弟子が横面を張り、げんこつで殴られたという禅のお師匠様もいるわけですね。絶えず我々は神を清めるということで、それも天津神も国津神も、天津神の働きをお願いして、天津神も清める、そして国津神も清める、自然も清める、自然の神も清めるし、遠津御祖神も清めるという世界があるということです。

丁度、盂蘭盆会ということで、先祖を迎えて、その先祖と色々と話してみると、亡くなった先祖が本当に清まってくると、生きている我々の遠津御祖が足りないところを逆に清めた方が良いよ、とサジェッションしてくれる、忠告してくれるというようなことで、そういうことも沢山出てくるということですね。そして、先祖も我々が普段、清めるようにということでやっていますけれども、更にまた清まった先祖が、生きた先祖を清めてくれるというか・・・。丁度、そういう色々な問題があれば、罪や穢れがあれば、先祖の神が、また補陀落というか、天に持っていってくれるという世界まで、人と先祖のコミュニケーションとしてあるということが、盂蘭盆会、お盆を白川流に考えることのひとつということになります。

そのようなことを今回、つくづく感じさせて頂いて、そのことを皆さんにお伝えしたいと思いましたのでお話させて頂きました。

ありがとうございました。