0198話:2017年08月31日

◇慣れる

連日暑い中、ありがとうございます。人間というのは、すぐ慣れるというか、これはロゴストロンのソフト文章でも同じです。これはある面では、慣れるということは、習うということであったり、生きる術になって、それを習っているということでもあります。脳はそういう風に出来てしまうというかね。同じことが繰り返されるということは、脳の学びでもありますが、それがマンネリ化とか、弊害になってくる場合もあります。特に同じフレーズを毎日あげている祓いもそうですし、私が毎日話している「はふりめく」も、すでに200回を超えているらしいのですけれども、どうも変な賭けをした人たちがいて、200回位でグルっとひと回りで同じことを言い出すのではないか、という賭けをしたようです(笑)。僕は同じことが言えない性で、そんなことにはならないのですが(笑)。

人間というのは慣れてくる中で、同じことが言えるようにも出来るんですね。立て板に水のように言えるようになる、しかし私は出来ません。それは、逆に文章の構成や文法構造、主語・述語・動詞まで何処かに行ってしまって、多分そのあたりは、Y君が苦労して、毎日やっているところだと思いますが(笑)。同じことを繰り返すと、マンネリで口からは言葉が出るんだけれども、脳は違うことを考えたりですとか、空想になったり、全く違うことをバラバラに考えるということが出来るようになるからですね。それはある面では、審神者する時には良いかもしれません。審神者というのは、お祓いをあげながら、神様とこんにちは、今起こっていることはどのようなお働きであるかと聞いたりするわけですね。お祓いをあげながら、一方で違う挨拶をしたり、神の働きを審神者するわけですから、そういうことに役に立つかもしれませんが・・・。お祓いだけに集中するということが大変に難しくなることですね。30分近く集中するのはもの凄く至難の業ですね。

我々は、だんだん年をとってきて感じることは、「とほかみえみため」の「と」で神と一体となれ、と先生は言われました。その「と」が大変なことなんですね。それでその日の体調とかが分かるということがありますけれども、最初でもって、だんだん分かるようになりますから、その時の息の継ぎ方が違ってくるわけですね。今日は心地よく出来るなとか、そういうことから始まります。多分、皆さんはスッと出るから、慣れてくるとすぐに空想の中に入れてしまいますね(笑)。

今日はそういうことを考える暇もなく、今日は初めてHくんが車のおもちゃを持ち込んでいました。我々があげる祓詞が耳に全く入らないんですね。子守唄にもならないですね(笑)。15分位経って、やっと飽きて、祝殿を出た時に、お釈迦様の時代の法華経の方便品の中の例え話を思い出しました。家が火事になって、子供がまだ中にいると。なかなか気づかない。焼け死んでしまうが、どうして良いか分からない。とっさに思ってやったことは、誰々ちゃん、外に車があるぞ、ということを言って、中から出しました。三界火宅と言う例ですけれどもね。それで助かるという方便の話があります。例え話というのは、1つの想像力と、分裂は、隠喩、換喩ということで事例があるので、このことはまたどこかでお話させて頂きますね。例え話も精神の傾向があるわけですね。そういうことが初めて起きたわけですね。それまではここにあるもので遊んでいた。2歳のEちゃんは、正座クッションで配置して遊んだりしていますね。要するに、毎日違うことが起こっているのだけれども、よっぽどのことがないとなかなか気が付かないということですね。

特にそういう意識や言葉で行うことは、慣れてくると我々は同じこととして見過ごしてしまいます。そういうところにフールプルーフのシステムであれば良いわけですが、どうしても間違いが出てきてしまいます。完全なルーティンワークの中で行っていると思っているからですね。ですが、時々、発送先の住所が違っていたりするということが起こるというのは、自分の中で同じことだと決めていくと、そういうことが起こります。言葉でも毎日、何が違うかということが前提にあると、その中でこれが違っていたかなと気付くことが出来ます。

◇今日感じたこと

毎日あげている大祓の中で、今日は自分で感じたことは2つあります。やっと今日の話したいことにたどり着きました(笑)。大祓というものも、意識の罪ということが起こっているんだなと。畔放ちとか、溝埋とか、樋放ちとかを意識の中でどういう風に扱うかということを考えてみると、それも一つの罪にもなりうるんだということを感じました。その辺りは、皆様方一人ひとりが考えて頂ければ良いと思います。また、最後に終わった後、何回か礼と祈り、宣言をしますけれども、その時には自分以外の世界のことを祈願というようになるわけですけれども、もちろんその後もそうですね。自分は何が出来るかということがあるわけですけれども、少なくともここでは、造化三神と全国一宮、あるいはひいては地球のこと、宇宙のことということで、私が学んだ奈良毅先生というのは、「宇宙並びに世界平和、人類和楽、真道即生、祖国安穏、天命完遂、神仏霊人物御感謝」ということを私は10代から学んでいたわけですけれども、宇宙ならびに世界が平和でありますようにということで始まる文言がありますけれども、その中で今日、特に気がついたことがあります。

大きく平和というと、抽象概念ですが、1つ1つの70億の人類が、我々の意識でもって役に立てることというのがあるわけですね。祈りとしてもあると思うんですね。それが少なくともどういう思いなのかなということですよね。もちろん、みんながいがみ合って、大量破壊兵器が使われないようにとかね。大陸間弾道弾ICBMが何発も発射されたりして、不安に感じない人もたくさん出てきてしまったので、もう効果はあまりないと思うんですけれどもね。片一方は、戦争の一部としてやっているのでしょうけれども、我々は逆に言えば、すぐに慣れてしまうということもありますけれども・・・。

◇70億人の一食が食べられるように、というような思いは実現できる

現在は10億人以上が飢えていると言われていますが、その祈りが誰かの糧になれば良いなと。ある宗教団体は一食(いちじき)運動と言って、自分の一食をどこかで飢えている方に寄付するということを通じて、世界に食事を寄付するという運動をやっていたこともありました。我々もそれに加わるわけではありませんが、その祈りが必ずそういう結果になるということは言霊の事実だと思うんですね。その祈りを単なる一食、70億人の一食が食べられるようにというような思いは、実現できるのではないかということが、この祈りと言うものの中にあるんですね。

我々は、言霊は実現するということを宣言しているわけですけれども、これは出来るのではないのかと。祈りの最小単位ではないですが、また、すぐに飢えがなくなるわけではないですが、食べるということで、みんな元気になって世界が平和になるということの元は、そんな思いが始まりになるから、そういう思いをドンドン広げていくということが、たぶん大事なことなのではないのかなと感じました。

今日はそういう意味のこと、またそのことが必ず実現できるということを、知らせて頂いたというかですね。そういう思いがありましたので、皆様にお伝えして、平和とか、もっと大きなものに繋がるようなものにするということが、単なる言葉を口祝詞というか、あるいはそういう単なる思いの祈りではなくて、実現する祈りということにもっていく為の強さ、確信というものを持つように出来るのではないのかということを今日は感じました。

だから二度と同じことが言えないので、テーマは似たようなことがあるかもしれませんが、内容は違っていると思います。

ありがとうございました。