0202話:2017年09月06日

◇そのままで良い

今日は、いつもより大人数であげて頂いたわけです。皆さん、音程とか、その時の情緒とかあって、思い思いのお祓いがあがっていました。だんだん慣れてくると脳が共振を起こして、ハーモニーが現れるようになってきましたね。不協和音というものを現代音楽は使っています。昔はあまり馴染めなかったのですが、ある時、2日間くらい現代音楽を片っ端から何百曲を専門家に聞かせて頂いたことがありました。それで良さが分かったことがあります。不協和音の中に良さがあるということを掴んだということがありました。今日は不協和音とは言えないけれども(笑)。

この間、Tさんがみんなあげやすいところが違うからしょうがないということを言っていました。彼は音楽をやっていたから、分かるのかもしれません。なかなか乙なものというか、良いんですね。人間がそれを脳で作っているんですね。これが良い曲だとか、これが良いリズムだとかですね。

もちろん、我々はラ音だったらずっとラ音で行くとか、あとはこのところで合わせてやりましょうねとかね。そういう合わせ方を2つ、最後にあげたり、下げてあげるということもありますが、あげている時、みんなそれぞれがそれぞれの思いがあって、気持ちが違うわけですね。それは5階層もあれば、あるいは情緒の荒々しい、切ない思いがあったり、辛い思いがあったりと・・・。そのままで良いのです。そのままで・・・。

◇繊細にできている神の働きを忘れない

ところで、白川というものは非常に繊細に神を宇宙の働きとか、こういうことをやるにしても、例えば我々は毎日、天之御中主大神からですね、お参りするという形をとりますね、神社としてみるとね。祝殿も神社の形をとっていますから、神社でお参りするのと同じように考えると、そこに入る時にまずはお願いする神様がまたいるんですね。ただ、柏手を打って清めて入るということもありますけれども、その前提みたいなものに彦狭知神(ひこさちのかみ)とか、手置帆負神(たおきほひのかみ)と、そういう名前の神様にお願いして取り次いでもらうということですね。

要するに、祀られている神様に繋がるという意味での最初にですね、本当は入る前にそういう神様にお願いするわけですね。そんなこともあって、細かく神の働きの体系があります。祓いの奏上に入る前も、天児屋命(あめのこやねのみこと)という神様が祓詞を司っているということで、その神様にまたお願いしてと・・・、ややこしく細かくなりますね(笑)。それで白川神辞典なんかをSさんと一緒に作ろうということで今用意をしています。多分、そのところが非常に繊細に出来ていたんですが、時代の経過でだんだん忘れてしまうということですね。今は人間が神様の位置に居て、みんな平等にいこうという世界だからですね。だから、やっぱり神の働きとして見るというかね。そこを忘れてしまわないということですね。時々の神様の働きをお願いする、というように1つ1つメッシュを細かく見る見方があるということですね。それはこれからも世の中に出さなければいけないから考えています。

◇自覚的に変えられるということができることを認めるのは難しい

だから、上手く合うということが大事とか、それが美しいという教育があるかもしれませんが、現代音楽というものは、そういうものを打ち破ろうとして出てきたのかもしれません。それが不協和音でも、それが心地よいものになるというかですね。あるいは、そういう音を出す者を認めるということでの深い意図があるのかもしれません。少なくともそういうことがあるとすれば、そういう中で不協和音ということでの、和音の1つとして認めて、それで、一人ひとりが出している今、この瞬間の情緒を大切にするということに繋がれば良いんですね。それは自分自身の出している情緒も知って自覚するということでもあります。その上で自己自身を思いやることもそうだし、他者を思いやるということも出てきます。

人は今までの、一から生涯で前世から見ると、今世で10%進化したらマックスで大変なことだと思うのですが、人間の心理や生理から見て、あるいはDNAは変わらないということから見たら、ほとんど不可能で、環境によっては変わることがあるかもしれませんが、自分が自覚的に変えられることが出来ると凄いことになると思います。でも、そういう変えられるということを認めるというか、そういうことは非常に難しいというかね。普通、自分自身の命の巡りがそのまま巡って、気付かないで終わってしまうということですね。やはり、自らの声を出してみる、皆さんの思いを聞いてみる、聞こえてきますからね、それを共にして、それを否定しないことが大事なことなのではないのかと。それが自由、平等、博愛ではないですが、そういう世界に行く道程であるということを感じます。

私は先生方から、若い日に感情的になった祓いで感極まることもありましたが、そういうことは駄目と釘を刺されたことがあったのですが、それは今となってどうも撤回しても良いのではないかということですね。修行してみると、そういう情緒にも自分が惑わされず、それも客観視するという意味では良いかもしれません。いつもでは困りますがね(笑)

少なくとも嫌だなと思うことが逆に、自分自身がまだそういう心の中で拘泥があるということを、またそういう気持ちを排除しようとしていることの現れであるということを感じた方が良いかもしれませんね。不協和音があるとしても、そういうものは自分にもあるんだなということを確認するだけで、またその中でやっていくと、多分、自分自身も一番良い祓いがあがるし、みんなを逆に言えば、客観視できて、1つ1つ認めるということが出来る。そうして更に客観視が出来てで、許すというとおかしいですが、心から承認することが出来ると。そういうことが出来るのではないのかということを、今日、お祓いをあげていて感じました。

ありがとうございました。