0210話:2017年09月12日

◇仮説を立てて証明したことによって、生き方が確信になる

このところ、生き方が確信になるという話を月次祭でもあったんですけれども、信と付くから、信仰しているように思ってしまうところがあるのですけれども、強い信仰になったという意味ではないんですね。言ってみれば、仮説を立てて証明したことによって、自分自身がそうなんだということを確認するという意味なんですね。だから、そこのあたりがだいぶ違うというかね。

我々は神様のことをやっているわけですが、一神教だと、宇宙は全て1つの神、それはエホバと言ったり、アラーと言ったり、色々と名前が付いていますが、その神様がこの世を全て作ったという風なことになるんですけれどもね、それは仮説でもなんでもなくて、それを信じないと始まらない行為ですね。百歩譲って言えば、信じることを証明するようなですね。キリスト教では、イエスはマリアの処女懐胎(しょじょかいたい)で生まれたということを証明しないといけないわけですね。もちろん、神様が宇宙を作ったということも証明しなければいけないけれども、そういう現代のDNAとか、科学から見るとどうなのかなと思ってしまうので、証明するということは非常に難しいところがあります。そういうことをそうだと思いながらやっていくということで、そこに信仰ということが介在してくるのですけれども、我々は全然、信仰はしていないんですね。

階段のように、神様が初めに出てきて、しばらくして消えてしまうというような、別天津神(ことあまつかみ)ですね。皇御祖神(すめみおやのかみ)というのは、天皇家も礼拝する造化三神ですね。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ですね。そこに造化とありますけれども、創造という意味ではありませんが、近い線をいっているのは、江戸時代の平田篤胤の頃に、平田篤胤も白川家の責任者、学頭をやっていたことがあるのですけれども、その時にキリスト教に対抗上、造化という言い方をしたのではないかと思っているのですけれども、その三神が宇宙を作ったという意味合いに取れるような言葉になっているのですけれども、それもまた違うわけですね。

◇人間が証明するという方法は言葉しかない

いわゆる古事記には「初めになりませる神の名は天之御中主神」と書いてあるわけですからね、創造した神が成ったなんて言わないわけですから。要するに、我々は神の階層を遠津御祖神から、自然の神、国津神、天津神と全て名付けてあると言ってもいいんですね。それは言葉によってそれはあるからですね。強いて言えば、ヨハネ伝の第一章に「初めに言葉ありき」というのが、「初めになりませる」ではないですけれども、そういう言葉なのではないのかというのは、記号・暗号みたいなものですね。最初は、天之御中主神は「ウ」だということで、一音というように古事記には出ていたというのが、小笠原先生達や一条家とか、賢所に隠されていた真実ですね。そういう言霊が初めにあったということになるんですね。だから、端的に言ってしまうと、人間が証明するという方法は言葉しかないんですね。数式があるのではないかと。数式も数学の言葉なんですね。数学の言葉、物理学の言葉、文学の言葉、我々の日常用語もそうですけれども、そういう言葉で全てが作られているということは、我々の布斗麻邇というところから、全ての言葉が生じているのではないのかと仮説を立てているわけですね。

だから、それを証明するということは、ある程度の時間や今の言語学というものを人文科学の中で一番進んだ科学ですけれども、そういうものを学んでいかないといけないということですね。それは私が言霊ということを学ぶ時に、言語学の世界でも著名な奈良毅先生から教えを受けました。
そういう意味では、言語学は言霊学を初めに学ぶ為の道ではあったんですね。要するに、言葉というものが、老子なんかに近いですね。無名は有名の母というか。名前がないということは、今度は名が付くということの母であると。当たり前の論理ですけれども。そういう言葉が初めにありということですね。

人間と動物との違いは、動物も意念があるのだけれども、それを充分に言語化しきれていないということですね。タカマハラナヤサワの行のうち、どの行を使っているかを知らないといけないというかね。それは動物の言語ということがあるわけですけれどもね。動物とのコミュニケーションの為には、人間が翻訳してあげないといけないということが、動物との間で出てくると思うんですね。それは必要なことだと思いますけれども。我々は信仰しないということなんですね。そういう心というものの体制を使わない、ということがあるんですけれども、それでは何かと言いますと、それはやはり科学ですね。

布斗麻邇という言霊から出来たということで、全て神も高天原に集まって、神様が協議して全部できてますね。最初に出てきた神様を大事にするということは、皇御祖神を大事にする。だから、伊勢神宮も天照大御神が皇御祖ですね。元の親である三神を迎えるという宮ですね。そういうこともあるわけですけれども、要は、神様というものの段階を追って、色々な働きが広がっていくわけですね。それぞれの働きを、例えば、遠津御祖神の働きでも、結局はそれこそ、猿も遠津御祖神になるという話ですね。生命というものの1つの連続体から見れば、それを進化論と言っているわけですね。

進化論も違いがあるんですね。一神教は進化論を認めないということで、中間体でデザインした進化論を作って表現するわけですね。それは神が創造したということではなくて、アメリカなんかでもそうですけれども、デザインしたのではないのかと。それは神と言わないで、何か凄い意志ということで「サムシング・グレート」という言い方をしています。それも結局は進化論とは違う捉え方になるんですね。途中から進化を変えたということだと、今度は神が介在するということで、また違った神観になるんですね。だから、全知全能という話になってしまうんですね。本当はそうかもしれませんが、全知であっても、それが一神教から見れば、後に全能にしないといけないことが必ず入っているというかね。そのことはなかなか言えないことで、そういう矛盾にぶつかっているわけですね。

我々は多神教と一神教という言い方で、一種のそれを神と言うから、それを何やら信仰のように捉える癖があるのですが、そういうことではなくて、証明方法として神というものを次第に広げていく為の階層性を持っているというかね。それはこれからの我々が新しい機械を作ろうとしていますが、そういうことが次元を超えるということを、数学のメビウスによって、そういう言葉によって変わるということを、これから証明するということをやるわけですけれども、その結果、コンピューターを駆使したロゴストロンの新しいメビウスというものが出来るわけですね。アンパイアーから今度はメビウスというのが出来るわけですね。

次元もひとつの神かもしれませんが、その神の上がって行き方を証明していくというのが、我々のやり方なんですね。それはもう科学なんですね。論理学や人文科学の中にはありますけれども、それも科学なんですね。自然科学も人文科学も社会科学も科学の方法論ですね。それは仮説を立ててやる時の、上手くそれを次第に仮説を証明していく次元方程式みたいなものですね。岡潔という人は、7次元方程式まで解いてノーベル賞候補になりましたけれども。9次元とか11次元とかね。物理学は26次元とか、南部陽一郎先生は言っていましたが、数学的に見ると11次元までが限界ということで、現在の宇宙を11次元という次元で捉えるということですから、11次元方程式ということになるんですね。そんなものは誰もやっていませんけれども、それはもう11次元には重力が入れないという物理学と数学の違いがあるのですけれどもね。

◇仮説を立てて証明していくという科学

我々はそれは、ロゴストロンが入れるのではないのかという仮説を立てているだけなわけですけれども、それを証明していくというのが、我々の毎日あげている中での、必ず何か自分が立てた仮説に対して得られるというのが、科学的な手法ですね。そのことをやっているのであって、決して信仰でやるということではありません。宗教を貶めるわけではありませんが、そういう方法ではやらないということをはっきりと明言してやっているから、皆さんは洗脳にもあわずに、科学的に21世紀にようやく辿り着いた階層論や、言葉を中心にして、それが言霊である、それの様々な言葉の表現が神であるというところも、そういうものも具体的に国手主神ではないですが、そういう働きに対して名前を付けるということでいくわけですね。

掟手主もそうですし、幣手主ということもありますけれども、これも1つのお金の神様と言っているけれども、これはそういう昨日もお話しましたが、白衣でもってやるという意味も、そういう神の名前がついていますということで、そうやって証明していくわけですね。ですから、今日の私の説では皇御祖神というかですね、造化三神が最初の神の名としてなったと。それが元であるよということを祈念するような意味での、皇御祖ということが分かると、そのことが最初から宇宙を創造したということを信じなさいと言わないで、しっかりと科学的にですね・・・。結果として、初めに言葉があって、言葉が全てを生み出したんだというところまで、瞬間瞬間に生み出す、過去形ではないんですね。その点も色々とありますから、1つ1つが腑に落ちてくるというかね。最初に立てた仮説に対して、あるいは神話に対して確かにそうなんだということが分かるという時が必ず来るんですね。それは証明をしようとしている行為だと。信仰という形の証明ではなくてですね。禅にも言えることですが、全く理不尽なことを一生懸命考えて、ではなくて、やる方法があるということが、21世紀の新しい時代の中でそれが可能になる時が来たんだと。そういうもので証明する知識というかね。

またそういうことを実際の機械として、コンピューターの知能として使うことが出来る時が来たんだということを知って頂きたいと思います。そんなことを今日感じました。

ありがとうございました。