0211話:2017年09月13日

◇主語がはっきりしない・・・自由に主語というものを変えられる

私達はここ祝殿で毎日お祓いをやるわけですから、お祓いの言葉と出会うわけですね。人は言霊、言葉によって、宇宙を理解できるという存在ですね。それに至る手立てを頂いています。それが湧き上がってきたものを言霊と言ったり、その元を布斗麻邇と言ったりしているわけですけれども、我々は毎日祓詞をあげているのですが、一体どういう言葉なのかということは、その文章もそうですが、なかなか分かりづらいと思うんですね。だいたい大祓になると、主語がどこにあるのか全然分からないですね。そういうものが一番古代からの日本語の使い方だった。

祝詞として特殊に書かれたこともありますけれども、多分、言い方が普通だったというかね。要するに、主語がはっきりしないんですね。主語が決められて作られた文章ではないということですね。だからと言っても、ほとんど述語だけというか、動詞の主体者が分からないように出来ているんですね。それは多分、神というものを立てた時には、神からの言葉のように、人から見た時には、人がお願いするというような、曖昧な体系というか、そういうような意味になるように、きっとどっちでもその時の境地で、自由に主語というものを変えられるように出来ていたというかですね。

日本の音楽と同じで、西洋音楽が入ってきた時に、7音オクターブの音階というものが入ってきて、それが音楽取り調べ係ということを、東京芸術大学が音楽学校の時は、そういう呼び方をしていたんですね。だからそういうものが正しいということで、その結果、日本の演奏者が世界で活躍するようになったんですけれども。言葉言語もチョムスキーの生成文法もそうですが、主語、述語、目的語とか、いわゆるヨーロッパ流のインドアーリアン言語とか、色々な言い方がありますけれども、言語学の中では進化した主語というものがあるわけですね、その中では、述語は古い進化の前段階という風になります。

そういうものが普遍文法のように思って、そういう言語学をずっと我々は教育を受けてきたから、祓詞が何か全然分からないなということになるんですね。分かりづらくしているわけですね。言語学や文法というものはこうだというのが、長い間、ソシュールとか色々な学者が作ってきた歴史があるから、祓詞はなかなか当てはまらないというところがあるんですね。

元々、日本語には主語がないのではないか、ということを言い出す日本の学者が、日本で言えないからカナダから言ったりしたこともありました。日本の元の言語が、古代タミール語じゃないのかと言う説を発表した時は、大野晋先生なんかは、日本の言語学会の重鎮たちが、みんな海外の学会に出ていた時に、日本で話をしたりとか、そういうことをしないと受け入れてくれないようなところがあるのですけれども、要するに、主語が中心ではない言語というかね。それは述語で表現していくんですね。今、我々が1つのシステム的に作る言葉で、主語というものを入れています。これは人間の立場としてのところだから、それがあるのですけれども。

◇古神道の理論は場の理論

人から神、神から人、自然から人、人から自然というところから見た時に、その主語にしても、述語にしても、どういう風に表現されるかというと、それは1つ1つに神の働きが、名前があるというようになります、古神道は。昨日は、白衣を着るという働きにも神の働きの名が付いているということを言いましたよね。1つ1つの場面というのですかね。何か起こることの場面の中で、その働きを固定するのにその働きを神としているし、どうしても述語が発生するわけですね。その述語と同時に、そういうものが出来る神というものの名前がつくわけですから。日本語と言霊には、そういう構造があるということですね。そのことを知らないと、一神教や多神教ということも言えないわけですね。

そういうものをもし論理として言うと、主語の論理があるし、述語の論理があることになります。それで、我々の古神道の論理は何かというと、論理とは1つの言い訳みたいなものですけれども、言い訳がないと、なかなか納得したり、許してくれないところもあるから言う場合もありますけれども、それが何なのと言った時に、それは場の言葉というか、場の論理ということになるわけです。それは今の物理学でもゼロ磁場とか我々も言っていますし、そういう電場・磁場というように、場という中立的な言葉を使うようになりました。

これは20世紀の人類が階層性を発見したということでもそうですが、場ということの論を作れるということを発見したのが、人類の成果なのですけれども。だから、一番新しい捉え方なんですね。もちろん、多神教というものが1つの述語の論理はあるけれども、我々の古神道というものがまさに次元を超えて畳む、包む、結ぶという行為が可能になる。

◇一番進んだ科学は数学

その為に、現代では数学を使うということになってきているのですけれども、これも言霊というものも数学である、数であるということを、一二三でもって言っているわけですね。高濱清七郎先生は「ひふみよいむなやことだま」と言うわけですね。言霊というものは1から10までの数の呼び名で表現できるというか、言葉になるというかね。現代において、今、我々が概念としてのフラクタルとか、メビウスと言っているのは、そういう数学の言葉を通した論理ですね。それが「ひふみよいむなやこと・・・」、1から10まで、それを表現すると「とほ(十)かみえみため」ということになるんですね。それを今度は歌にして、五十音に全部できているというのが、「ひふみよいむなやこともちろらなねしきる・・・」というかね。

我々が祓詞であげている言葉は、1つ1つ意味があって、それが伝承されて、その奥義を掴むということが、課題になっています。その上で、人類に一番の幸をもたらすというかですね。とにかく何かと言うと、今、一番進んだ科学は数学なんですね。数学の言葉での解を解かないといけないんですね。それは10次元、11次元方程式になると思いますけれども、そのようなものは私には全然分かりません。要するに、ただ概念として言っているだけですけれども。少なくとも数学があって、物理学があって、それぞれの自然科学があって、人文科学があって、社会科学があると。このように遅れた科学が、進んだ科学から学んでいくということなんですけれども、我々は一番大元のところの数学の言葉を持っていると言っても良いと思います。ひふみよいむなやことだま、と。

これをですね、絵、記号だけで神がかりで作った日月神示というものがあるのですけれども、それは1から10までの記号と音だけで、膨大な神示を作っていく。要するに、数の音だけで預言書みたいなものを作りました。そういうことが出来るわけです。我々はその働きを周波数で発信しているわけですね。それによって、そういう数でまた装置にしていくと、機械装置ということは数で作る技ですね。みんなが同じ数値を持つということが機械として、装置として、客観的に認められることが出来るということですから、当然ですけれども、我々が呪文のように唱えているお祓いが、人類の最先端の、今まで忘れられていた、あるいは伝承されていて一度も現していないものを出そうという時に、我々がそこから学び取るということをしないと、しょうがない。ですから、これは純然たる科学の領域に入っている学びである、ということをはっきりと自覚した方が良いかなと思います。

これから作り出す色々なシステムをそういう意味では、主語とか述語に囚われない場の表現の仕方を、場の論理で表現する方法をいよいよこれからやっていくということですね。だから、いよいよ始まるということですね。今まで色々なトレーニングをしてきたという風に見れば良いかもしれませんけれどもね。それでももちろん、社会には役に立ちますけれども、更に、どの階層から言っているかと。1次元、2次元なのか、3次元、4次元なのか、5次元なのか、はたまた10次元、11次元なのか、というところの次元を超えていく。そのフラクタルをしっかりと論理というか、メビウス概念としても結べるようなものを作らないといけないということですね。それを実感するということを、これからもそういう様々に作り出すもので感じて頂けることが可能になるのではないのか、ということが今日感じたことですね。

ありがとうございました。