0212話:2017年09月14日

◇臨死の話

昨日はロゴソロジーの51回目で放送がありました。50人くらいの方が見てくださったようです。昨日、参加されたOさんとOさん、今日はいらっしゃいませんね。要するに、臨死の話がありました。二人とも臨死した経験があるそうです、よくは聞いていませんが・・・。ポイントは、Oさんが宇宙創造の場面を見られた、臨死(ニアディス)としてということですね。死んでいるわけではないのですが、死に近づいているということで、ニアディスですね。

そういう研究も色々あるのですけれども、臨死の時に宇宙創造が始まったところを見たいということですね。Oさんは、自分が宇宙の中で全く一人で孤独であるということを感じたそうです。この両者共、臨死の時に出てくる特徴のいくつかのうちの一つなんですね。皆様の中で臨死を経験したことがありますか?あぁ、何人かいらっしゃるんですね。臨死が、この肉体と、精神という存在が分かれるというか、あるいはエネルギー体が肉体から分かれていく時、その時、自分の肉体を客観視するという事態が起こるんですね。よく心臓停止した後、天上に浮かんで聞いているとか、そういうような話が普通にありますけれども。

私は子供の頃、子守唄のように母親が臨死の時の話を聞かされたんですね。お花畑が出てきて、そこを一人で歩いている・・・、というような。これは臨死の時によく出てくる原風景ですよね。この話を子守唄のように聞いていましたから、そういう世界があるということを知っていました。その後、チベットの死者の書を研究して、そういう世界があるのではないかということを確信しましたけれどもね。要するに、五魂五霊もそうですが、エネルギー体と、いわゆる体というものが分離していくというかね。闇の淵を丁度、行き様な状態ですね。その手前が綺麗な場所、光の場所というのが一般的になのですけれどもね。だから、そういう、要するに、離れていく時に感じる感じ方というのは、一種の臨死という意味ですね。それはエネルギー体で、自分の肉体に興味がなければ、そのまま宇宙のエネルギーの中に溶けていくというのか、あるいはそういうのが輪廻しないということになるのですけれども、その光の先のトンネルを抜けて、別の世界に行くと、次の命というか、輪廻するという道に出てくるのですけれどもね。

この間、Tさんが輪廻は81回というようなことを言っていましたから、機械は81回、未来のものは生まれ変わっていないものはあるから、70回生まれ変わったら今世で十回を全部終え、後の1回を来世どうするか、相談して決めるとかね。来世のことは、来世の預金をする銀行も作ります。未来世銀行を作ります。そこにいっぱい入れてもらって、後は次に行った時に豊かに暮らせるような銀行も作ろうと思っています。
大分おかしいと思われているかもしれませんが、本気で考えています(笑)。要するに、その世界ですね、エネルギー体になっていくと、自己というものの体を感じる時に自分自身の表現ですよね。一人称、宇宙は一人称になるの、二人称になるの、あるいは三人称なのか、どういう風に考えるのかということがあるんですね。今週話していたような文法的な意味合いからいくと、そういうことが多分に出てくるわけですね。

◇一人称、二人称、三人称という立場が全て瞬間に変わる

その神様、モーセになると、「我はありてあるものである」(I AM that I am)という風に、I amというのは一人称ですね。そういうような世界もあるわけですが、それは創造された後の神様が出て来る時の言葉であって、創造が行われる時というのは、ただ最初に目撃するように宇宙が創造される時を見るのが、日本的な意味の中今という世界ですね。中今という世界に立つと、瞬間の中で永遠があるというかね。だから、宇宙創造の瞬間を見るということが、日本の霊能者の最高峰の宗教の教祖様になるような人は、だいたいそういうことを言うわけですね。日本の昔の霊能者というのは、そういう宇宙の創造の時をみるんですね。

それは一人称とも、二人称とも、三人称とも言えないような人称とも言えないような世界が瞬間に起こるのですけれども、その創造の前は、本人は全く一人、一人から宇宙に全く孤独というように、これは一種の悟りという世界もそうですけれども、そういう世界があるわけですね。その後は一人でいると、一人では寂しいから宇宙を作ったというような神話になりうるということになるんですね。それはそういう情緒が入ってきて、宇宙創造とか、臨死というものを説明するわけですね。

毎朝掃除をして頂いているYさんも臨死体験者ですけれども、もし、先程の霊能者ではないですが、シャーマンの一番の資格というのは、イタコもそうですが、イタコ、恐山の霊能者は脱魂出来るかどうか、ということが最終試験なんですね。脱魂出来ることが、真性シャーマンの資格なしということで、そういうシャーマニズムの系譜があって、脱魂しないと、人を導けないということになっているんですね。脱魂するということは、満州シャーマンではないですが、本来みんなそういうもので、脱魂して天界に行って、神と出会って、天界で得た情報を、またこの地に知らせる。脱魂している時は、死んでいる状況と同じになります。また復活するということがシャーマンの資格なのですけれども、そういう意味では、臨死もシャーマンも延長線上にあるんですね。一種の超人間みたいなも存在になっているんだということが言えるのですけれども、その内容がどういう事かと言うと、客観視ということですね。私とあなたと自然というような、一人称、二人称、三人称という立場が全て瞬間に変わるわけですね。私とか、あなたとか、あなた達とか、単数と複数がありますけれども、そういう二人称というもの、三人称というものも、明確な1つのフラクタルですね。私ということと、あなたということと、瞬間にメッシュを細かく見ると、意識が変わっていく。そして、主語が変わる時には、瞬間に変わるわけですね、場面がそれを先程のように創造のところを見たり、あるいは自分というものがたった一人だということを自覚するということが起こるということですね。そのことがはっきりと刻まれると、今度は自己というものが多少、大切にするとか、そのことで起こる倫理的なものが生じるんですね。

◇本来の三人称の意味

大切にするというか、自然とか、他者を大切にするとか、神という存在があるのではないかということが分かってくるんですね。それで変わるのですけれども、三人称というものは本来は無いんですね。それを使うと、今度は一種の自由勝手に出来てしまうということが起こってしまうわけですね。それは神が、という表現が使えるわけでしょ。神がこう言った、というような三人称を使うということは、その言葉によって支配をしてしまうということが宗教の一番の問題点なんですね。
そういうことは三人称とは言わないんですね。

私はこの構文を複合一人称構文と言っているんですね。それを五階層の構文というところにある捉え方ですね。その時に自己自身を省みるということが起こって、自分の中で起こっている私とあなたという関係の中での不都合なところをちゃんと省みるということが、本来の三人称の意味だというところを、我々は学んでいると思うんですけれどもね。そんなことがあって、臨死というものがそういうことを知る、明確に分かれる、人間の肉体と精神とか、エネルギー体が分かれる時に、そのことが瞬間ではあるのですが、非常によく解かると。

これはだから人間が死ぬ時も、よく椙村先生が小さい時に、おじいさんが亡くなる時に見たというかね、霊体が分かれていく時を見たということを、大人に言ったら非常に怒られたということがあったそうです。私の父は亡くなる時に、どういう風に亡くなったかということを、ネパールの釈迦族の坊さんに聞いた所、頭から抜けていったと言っていました。確かにお風呂で亡くなっていましたから、頭から抜けるのは当然かもしれませんけれどもね。だから風呂で亡くなることは一番良い死に方であるというかね。みんなまだ死ぬことは当分、無いと思いますが足から出たら駄目なんだということをよく言われていたんですけれども、覚えておいてください。だから、エネルギー体が出ていく時に、頭から分かれると良い。分かれて知るんですね。そして、エネルギーの宇宙にはエネルギーが充満しているということを知るんですけれどもね。白川の修行というのは、星も太陽も生み出すという修行をお国体机の上でやるんですけれどもね。

ですから、宇宙創造という意味のそういうものに近いような神の働きを体感するような修行があるわけですね。その辺がたぶん他の、それが宇宙創造といういわゆる造化三神の働き、あるいは前の天というか、神様さえも創り出す元の神様のところは論理的にはいけるのですが、それを体感的なものにするのが中今というところにあるというかですね。永遠と瞬間というかですね。そういうものが同時にある場面に立つということを修行の中でやるというかね。宇宙というものが出る瞬間にそういうものを掴むという技を学ぶというか、修行するということになるんですね。そういうことを経験した上で、宇宙創造ということを言うということが大事なことになるのかなと思いました。その辺りもまたお伝え出来るような、また一緒にご修行するというかね。そういうことがだんだん可能になるのではないのかなと。明日の祝殿講習もそういうものまで出来るような形になると良いなというかですね、複合一人称というか、一人称、二人称ということを自分の中で掴むことが出来ると良いなと感じています。

ありがとうございました。