0213話:2017年09月15日

Oさん、ノンローカルブレイン講座のお話をお願いいたします。

 

●Oさん

水曜日に、ノンローカルブレインの第2回目の講義を神保町で行いました。結論から言いますと、非常に好評で終えることが出来ました。私は浦島太郎の物語が資本主義にどう関係するのか、ということをお話しました。
そして、Iさんにも圀手會のお話をして頂きました。次回以降にも、より発展的に繋がっていくような感じがしました。

 

【七沢代表】

今日は母親の命日で、昨日、母親の話が出てきたのも、ああそうかと思って、今朝、仏壇を綺麗にしました。亡くなった時は、丁度、家にある柱時計が来る時だったんですね。だから、あれは孫たちからみると「おじいさんの時計」ではなく、「おばあちゃんの時計」なんですね(笑)。父親の時はネパールの坊さんたちと葬祭をやったんですが、母親の時はそういうこともなく、淡々と送ったという感じなんですけれども、要するに、遠津御祖神というのは、我々は今いるお父さん、お母さん、おばあちゃん、おじいちゃんと一緒に生きているとすると、生きている遠津御祖神になります。後手で打つということは、我々は遠津御祖神の先頭に立っているということですね。遠津御祖神を自分に迎えているかどうかということが、非常に大事なことになります。それは生きていても、亡くなっていても否定のしようがないところですね。祖父、祖母、高祖父、高祖母ということで、祓串も4つに分けてかたどるということもあるわけですね。

◇多義的な日本語。アナログのゆえの語呂合わせ、ダジャレ

神道というのは、色々なものをまぜこぜというか、多義的な0音0義というか、一字ではなくて、多義的に沢山の意味が重なって表現されるから、どのところを言っているのか、コミュニケーションの中で掴み難いわけです。これはアナログの極地とも言えますが、一方では、デジタルにせざるを得ない時には、一音一義ではないですが、1つの言葉に対して、1つの意味にしないと、機械の中は、デジタルは動かないわけですからね。そういう難しさというか、まどろっこしさというのがあるわけですね。一方では、デジタルに捉えないといけないですが、一方ではアナログというものがやりやすいわけですね、コミュニケーションする時には。だから、そこに語呂合わせとか、ダジャレのようなものが出てくるわけですよね。そうやって楽しむことが出来るというのが、日本語の特徴でもありますね。

フィネガンズ・ウェイクという小説は、ダジャレの小説なんですけれども、それは他の言語では訳せないけれども、日本語では訳せたんですね。最近はボケとツッコミなんていうことも言っていますが、漫才も神道から出ていったものですよね。正月に寿ほぐ時の言葉の巧みさとか、面白さとか、そういうものを扱っていて、漫才というものが起こったわけですけれども、それはボケとツッコミというようなことを最初に指摘された方が東晃史さんです。ヒトゲノムの言語構造の本にしているんですね。

色々な能や狂言というものもそうですし、古事記もそういうことですよね。伊邪那岐、伊邪那美が宇宙を作る時に、神を産む時に、最初、伊邪那美の方から、「あなにやしえおとこ」と言い、「あなにやしえおとめ」と言ったら、上手くできなくて、「あなにやしえおとめ」と言い、「あなにやしえおとこ」と言ったら上手くいったというような、そういう言葉の掛け合いから1つの宇宙が生まれたというようなことも、1つの古事記ですけれども、それはコミュニケーションの一番のもとになるんですね。神と神のコミュニケーションですけれども、我々は神と人のコミュニケーション、人と自然、人と動物、人と人、人と機械というコミュニケーションのプラットホームを作ろうとしている。

◇物質にも命があると捉えてコミュニケーションをする態度

日本の最初のオートメーションの装置を扱う時、トヨタがどこか分かりませんけれども、花子さんとか、太郎さんとか、名前を付けるんですね。それで機械と交流するというかですね。それは、今の物理学で言うと、機械だって、集まり命ということですね。分子構造の集まりと言えば集まりですから、それも命を持っているとも考えるんですね。草も木も人もなおさらですから、神の社という風に謳ってきたように、機械も自分の支配物というような捉え方ではないということですね。そういう態度で、スタンスで、機械と対応するということが、非常に大事なところではないのかと感じるんですね。

そういうことは、自然に対して、それを神とするということで、縄文からの日本の捉え方は非常に大事なことですね。自然というものも、ある面、物質と捉えているのだけれども、それも命があるんだと。もちろん、人間も命が通うわけですけれども。そうすると分かりやすいけれども、人間も支配下に置いたり、物質と捉えた時に、唯物論で限りなく淘汰や、あるいは殺害していくということが起こるわけですね。日本人が縄文の頃からあったように、自分以外の優れたものを神とするというスタンスを復活しないといけない。

◇分けるということと、分かるということ

さて、精神というと魂の問題ですよね。主に、精神と書いて、明治の白川では(くはしみたま)とパラフレーズしていました。今では精魂というか、そういうことでもあるんですね。だから、魂を神と言うというかですね。それくらい大切な捉え方というかですね。ですから、物理的にはエネルギー体であるかどうかは別にして、エネルギー体として見えないものを、そういう精神という風に呼んでも、精魂と呼んでも、精通した神と呼んでも、言葉が出来た時の明治以降ですね、神経なんかもそうだと思うんですね。神の経(みち)と書いて、神経ですね。ということがありますので、精魂も精神という風な呼び名でも良いと思うんですけれども、少なくともそれは、先程言ったように、エネルギーというものの持っている働きをモノと違うということで分けるということと、分かるということが、昨日の臨死ではないですけれども、幽体、あるいは霊体など色々な言い方をしますけれども、エネルギー体と肉体とが離れるということで、それがまたフラクタルに在るということを知るということにもなるのですけれども、分けられていくのだけれども、明確に解るということは、我々は1つになっていますから、なかなかそれが分からないということがありますけれども、そういう世界に行くと、その瞬間に分かるというかね。

その時に分かれる時に、瞬間に分かるということが、南無阿弥陀仏の親鸞の世界ですよね。一体となって生きている内は、どうしようもないですが、一旦、離れると仏であることが解るというかですね。それは離れていく時に南無阿弥陀仏という一言で成仏するんだという、そういう哲学、生き方になる。そこを白川では、荒魂は地に帰る、和魂は天に帰るというような、大きな二元論でもありますけれども、親鸞の教えが一番近いと思います。そこまでいくように、普段のお経をあげているということで、亡くなる時に南無阿弥陀仏と。これは坊さんの手を煩わさないということになるかもしれませんが、そういう一言で成仏ということは、離れるということは宇宙に溶けていくというかですね。天に昇っていくということ、そして大地に還ると、エネルギー体は天に帰るということが神道にはあると思います。だから、神道の命(みこと)とか、彦姫ということで、何々彦、何々姫の命(みこと)ですね。

◇柏手は神に対する態度

高濱先生の魂を波動機で測ったことがあるんですね。高濱清七郎先生も測ったりしました。高濱清七郎より高濱浩先生の方が早く神になっていたとかね、そんなことがわかりました。それは機械ですから、分かりませんけれどもね。そのくらい即身成仏ということを密教では言いますが、身をもって成仏していくということもありますけれども、神道で言うと神になるということですね。ワラベで亡くなった時には、童ると書きますけれども・・・。大概、50年位生きると命(みこと)になって、さらに高濱の大神というように、そういう風に神になるんですね。そういう世界が当然と言えば、当然ですよね。

人が神を称えるということは、我々は自然を神として称えるわけですから、ましてや人間が神を称えるという時には、1つになるということになるのですけれども。昔は、柏手というのは、そういう生きた相手に打っているんですね。そういう風に言われています。今回、比嘉さんがヒカルランドから本を出しました。ここの研究所のことで、その中で柏手が1つのスイッチということを言っていましたけれどもね。人に打ったわけですね。それが柏手の始まりですね。

こんにちは、ということの意味が、これは奈良先生からベンガル語を学んでいた時に、ノモシカールはこんにちは、ヒンディー語だとナマステと言います。それは昨日、夜、K君のお店でカレーをご馳走になりました。まだ店を開いてから食べたことがありませんでした。非常に美味しくなっていていました。身びいきみたいなところもありますが、たまたまそういうことがあって、インドの家庭料理に近いという話をしたから、そんな話になるのかもしれませんけれども、要するに、その人の精神がその人に宿っているように、という祈りがナマシカールの意味ですね。そうやって礼拝するような、こんにちは、ノモシカールと言って、あなたの魂があなた自身に宿りますように、という挨拶ですね。

それと同じように手を合わせるということとも、圀手會ではないですが、柏手の、言ってみれば三種までの柏手はまさに御手振りですね。それの中のそういう柏手というものも、我々は毎日やっていますけれども、それは神に対する態度が柏手になっているということですね。そのことがあるのではないのかと。だから、一本締めというのは、みんな心を1つにするというかね。心を1つにして、神を迎えるということに繋がるのではないのかなということを昨日から、あるいは今日の命日ということを遠津御祖神として迎える。それは生きた先祖であろうが、亡くなった先祖であろうが、親しく迎えるということが我々の日常の生き方とするということが、また天津神、国津神を迎えるという時のそういう態度というかね。そこが日本の、白川の人たちが、何千年も伝えてくれた大事なところだと思います。

それは天照大御神をお慰めするということが、天皇陛下のお役目と言われますけれども、天皇家であれば遠津御祖神になるわけですけれども、その神様をご苦労でございますということで、日々、そういう風に賢所で、毎朝の祈りの中にあるということが我々も同じことだと思うんですね。そういうものが伝わっているんだということの情緒が必ずしも十分でなくても、そういう世界を前提とする社会というか、コミュニケーションが成り立つということが大事なところですね。

ありがとうございました。