0220話:2017年09月26日

◇「経営」と「時空間」

我々は企業活動もするし、一種の事業経営というか、国家経営を考えるとか、色々とあると思います。知事もそうですね。うちの親父の家系も、平安時代に県主(あがたぬし)として、甲斐の国に来て、甲斐の国の経営を任されていました。私は経営というのはひとつの曼荼羅として見ていて、経営を真ん中において、上の方に研究と開発、下に製造と販売という風に分類して曼荼羅にしています。今は宣伝とか、色々と経営の仕方がありますけれども、様々なものがあって、それを曼荼羅上に並べて、統合ソフトを作ったことがありました。それをビジネスマンダラと言いました。

それで国の経営ですね。国から国家経営のソフトを作ってくれということで、国家戦略とか、戦術とか、そういうものを入れたソフトを20省庁を統合するものを作りました。それは当時、e・japanの事業で20兆円くらいの予算規模でした。企業もそうですが、秘密のことがみんなソフトウェア上に載ってしまうので、そういうものを狙ったサイバーテロが今はありますが、逆にそういう秘密がはっきりしてしまうんですね。それでそういうことを嫌うということがあって、15年前はそういうことをしなくなるのですが。我々はこの時代で、小さな1つの企業ですが、研究と開発と製造、販売ということを全て行っているわけですが、その全体を統括するのが経営ということになります。

経営というものは、縦糸と横糸、縦軸と横軸、時間と空間みたいなものですね。経度と緯度みたいな話ですね。そういうもので、地球もそうやって測るのですけれどもね。経というものは縦軸で、営というものが横軸で、そういうもので交差したところに経営がある。それは時間と空間ということになるんですね。

企業というものは、その時代の時空間に縦軸と横軸をやるということですね。ですから、大企業になれば研究開発、製造販売を同時に行うわけですね。今は色々な事業があるから、それぞれ特化しているわけですが、基本的に、今我々がやっているのは相当どこでもやるわけですね。ですから、非常に難しいというかね。農業まで実際にやるというくらいですから、そういう第1次産業、第2次、第3次、第4次、第5次とか、そういう産業を色々、本当に新大陸に行って、そこで何かをするようにやっているわけですけれども。

◇資本主義というものでは、新しい形の社会体制は作れない

それも今の時間軸ということから見ると、共産主義もありましたけれども、今我々が生まれた時から、資本主義というところでやってきたわけですけれども、端的に言えば、それは欲望を中心としたものですね。原始的だけれども、非常に強いところがあるんですね。欲望は野放しになると膨れ上がって強欲ということになってくるんですけれども、それを強欲資本主義なんて言うんですけれども。欲は限らないと実現できないんですね。

今の支配ということから見れば、自分たちが支配したと思った瞬間に、それは崩れていくんですね。それは欲望というものを限らないということによって崩れるわけですね。資本主義という発想の中では、欲望を限らないと実現しません。これは明らかです。
その欲望というものから、それを改良しようとしたのが共産主義ということですね。共産主義というのも、結局は失敗してしまうわけですが。自分たちの目的が倒すということで、今の資本を、持っているものを倒すという為の論、これは社会科学を簡単に説明していますから、一筋だけの論として聞いて頂ければ良いのですが。それも必ず倒されますね。

これは中国の歴史を見てもそうですね。王権は絶えず革命になって倒されるんですね。革命ということの失敗を、何度も何度もしても同じことになるということが分かってきました。あまり生産性がないから、経営というものの中で役立たないということが分かってきて、それも止めてしまうんですね。支配の為に一部残っているところもありますが、それが原動力になったものが、持たざる者や虐げられた者の怨念みたいなもので経営をするから、また駄目になってしまうんですね。感情のレベルの解析に行ったということは、ひとつの成果なのですが、それは怨嗟怨念というものですね。マルクスがドイツ、イギリスなどの国々で、小さい子供が働かされていて、今のインドやアフリカもそうですが、コーヒーを飲ませて労働を強化するわけですね。それで子どもたちが可哀想に亡くなっていくのを見て、最初は考えたと思うんですね。しかし、所詮は怨念というものが循環してしまって、失敗に終わるわけですね。そういうものを心の安定とか、真理もそうですが、あるいは美しい音楽、自然がないと人間は満足出来ないということが起こるわけですね。

ですから、そういうものを得ようとするということ、あるいは、そういうものが満たされないといけないんですね。労働が美しいということで、ソビエトの時のオーケストラでは、色々な機械の音を入れた音楽などを作りましたが、みんな失敗しました。美しくないんですね。背後に労働を賛美するような場面を使っているから、あまり美しくないというかね。ソビエトも実験としては70年実験して失敗してしまうんですね。ですが、最初は成功すると思って、色々な音楽や芸術、絵画も発展させるわけですね。当然、科学ということも一生懸命やって、色々な兵器の開発も進んだわけですけれどもね。ある程度の食べることが出来ても、なかなかそれは辛いというか、本当の喜びが無いというかね。

今、ロシアになってから、信仰ですね、ロシア正教みたいなものを取り入れて、また、元のキリスト教になっていくわけですね。そういう宗教でも、共産主義は否定しましたから、そういう世界の心の有り様というか、安心を得られないということで、それももう一度、取り入れるような形になるわけですね。ロシアも資本主義も強欲になった人のものは、パーにするということをして、プーチンがやっているわけですね。やはりそういう、欲望の感情も、心地良いもの、美しいものになっていかないと、資本主義というものでは、新しい形の社会体制は作れないということになると思うんですね。もちろん、我々の小さなように見えるけれども、どこにでも広がっていく道というのはあると思うのですけれども、そういうものは、今、ひとつに昇っていくというかね。美というのですかね。

心も生き方も心地よくて、安心して、そして、平らけく、安らけく、清らけく、明らけくという平安清明という、ひとつの理念と言ったらおかしいですけれども、それがベースに無いと始まらないわけですね。だから、そういう非常に単純だけれども、そういうものが平等で、あるいは安心して、環境も含めて清らかで、明るい社会というものにしか、心の満足と拠り所はないのではないかと思うんですね。そういうものを少なくとも創り出すというかね。