0224話:2017年09月29日

◇記憶は全て脳の中にあるかどうか、まだ決まっていない

昨日、原稿のことで話をしていた時に分かったことがありました。脳の中で全て起こっているということが全てであるというか、一時期、今でもそうかもしれませんが、科学というのは、脳の研究だと、唯脳論になってしまう。脳の中で全て起こっていることだけで証明したり、考えるということが、脳の研究の中で起こっているわけですね。

ところが、我々みんな記憶を思い出したり、ひどい場合は、崖から落ちる瞬間に一生の記憶を思い出すというような、そういう走馬灯のように分かると言う人もいます。そういう事例もあります。

人間の中にある記憶も全て脳の中にあるかどうか、まだ決まっていない。ということは解明されていないわけですね。そういうものも全部脳の中にあると言うと、現在やっている非局在脳というようセミナーは成立しなくなってしましますね(笑)。科学というものは一旦ひとつということを決めると、なかなか次に行き難くなるのですけれどもね。多分、記憶も我々が色々と言っているのは、人間の外に人間の記憶もあるかもしれないというかですね。極端な言い方では、その人の前世が全部葉っぱに書かれているという、アガスティアの葉というものもあります。これも随分やってみて調べてみたことがあります。インド由来のものですから、青山さんとか、色々な方が研究したことがありました。そういうものをみんな信用したりして、色々なビジネス集団みたいなものが出来上がってくるわけですね。

そういうものも外と言えば外ですが、人間が記憶していると思っていることが外に記憶されているということですね。人間同士が、記憶もテレパシーで送って、その人にもともとあったように、記憶が引き出されるということは色々な実験が行われています。

たぶん一説には、アカシックレコードと言って、全ての宇宙の記憶が、記憶保管所みたいなところにある、という極端な考え方もあります。それを物理学者の奥先生は滋賀大学にいらっしゃっていて、今はどこにいらっしゃるか分かりませんけれども、奥先生は3次元境界面という、次元の境界面に記録があるのではないかということを言っています。要するに、内と外ということの概念を変えると、色々と仮説が出て来ると思います。

◇記憶と記録

人間の脳の中で考えてみると、階層性というか、情緒と記録ですかね。コンピューターで考えると記録になりますね。記憶とは言いませんね。
機械は記憶をしないで、人間だけが記憶するということになっています。その違いはどこにあるかと言うと、同じ言葉が記録されていても、その言葉から感情が発現してくるかどうか、ということが言えると思うんですね。だから、みんなが特に鬱的な病気になると、同じ言葉を何度も自分の脳の中に書き込むということがあります。その書き込みがひどくなり過ぎて、ネットと同じように自分の中でいっぱいになり炎上してしまい、その感情がたまらなく嫌になって、死んでしまいたくなるということもあるわけですね。

要は、記憶というものはホットな場合には、即、感情が付いているわけですね。心地よいとか、快と不快どころなどではなくて、五情とか、情緒にいかないで、感情が言葉と貼り付いていて、それがそういう言葉を聞いただけで、何か自分の気分が悪くなるということが起こるわけですけれどもね。それがだんだん時間が経ったり、忘れたりして、分かれてくるんですね。

記憶というものの中で、概念記憶というか、概念として残るものと、情緒がすぐに引き出されるようになっている場合と、だんだん引き出され難くなってくる場合があります。嫌な記憶が即、嫌なというような感情になるということが出来にくくなるというかね。これは年をとれば、そういう感情も無くなってくるということは、悟りとボケの際どいところでもあります。そういう概念が現実になるというかね。ひとつの言霊が実現するということと、一見、似ているところがありますね。そのところは概念が、要するに、創造という概念から何かを生み出すということですね。

法則としては、今の時空間では、それが実現するものと、実現できないものとして、アイデアだけ残るものということが当然ありますが、基本的には、一種の外側にある概念と言うんですかね。概念と記憶を持ってきたり、持ってきたものを、感情でもって発生させるという機能を持っているというかね。ひとつの概念構造みたいなものがあって、それを人間が実現するというかね。嫌な気持ちになったり、事として実現するということをやっているというかね。それはもちろん遺伝子もそうですけれども。それが病気を起こしたり、健康にしたりというものが、DNAの中にあるということは分かっているわけですね。

ですから、記憶はそういうところがあって、自分が何か概念として持っていると、それを出そうと言ったら、出るということになると思うんですね。

◇吹き送って、さらに構造と機能に分けて収める

昨日はゴーストバスター(和の健康法則インストラクター)の方々に、第6種の伝授をしました。霊をとるということは、要するに、霊的機能を、単純に言えば、働かせないようにするということですね。その方法は色々とあるわけですね。言向け和すという方法もあれば、強引に出ていけ、と命令するとか、色々とあるんですね。それを白川だと、“吹き送り”という最終手段があります。これはたぶんゴーストバスターの方法とも近いものがあるかもしれませんけれども。吹き送りは、めったにすることはありません。

憑依についても、何かそういうものがあると思われている、感じて取るということをやると言いますけれども、例えば、取ったものはどうなるのということですね。ただそこら辺に漂っていたら、かえって邪魔になったりするわけですね。

新約聖書にはいっぱいそういう話はありますが、一旦、出した霊がまた仲間を7倍連れて帰ってきたということが書かれています。そういうのもイエスがまた出すわけですけれどもね。対抗的な意味では出してしまうとかですね。

吹き送りという概念は、神様にお願いして、根の国底の国に持っていってくれて、そこに送るから吹き送りと言います。根の国底の国は、地獄という意味合いもありますけれどもね。概念としては、地の国のようなものかもしれませんが、そういう中に閉じ込めるというかね。しかし、それで終わるわけではないんですね。元々、出てきたものは分けておかないといけないというかですね。そういう霊という概念と、働き、構造と機能ではないですが、そういうものをしっかりと元のところに分けて収めるというのか、そういうものが白川の教えであるわけですね。

ですから、そういう霊であっても、元(もと)の御座(みくら)に昇る、あるいは、神の場合でもそうですけれども、下りということを言うかどうかは分かりませんが、「元つ御座(みくら)に昇りましませ」というか、概念と分けるということですね、働きをですね。我々はこの空間の中で、五体でもって働いているわけですね。観念だけでは生きていることにならないですね。動けなかったら、字で書いてこうやってくださいということになるわけでしょ。そういうことと同じようなことが、構造と機能、働きというものが分かれているわけですね。ですから、亡くなった時には、五魂の和魂のところは天に昇り、荒魂、すなわち体は地に還ると言っているんですね。

それと同じように、記憶も分けて、しっかりと収めるというかね。概念を働かせて実現するということは、自分がその作動するスイッチを入れているんだということですね。概念や構造が機能するように、スイッチを押す役割があるわけですね。それによって、まず自分の嫌な思いが湧いてくるわけですね。そういうことをしっかりと観察して見ていないと、曖昧にしていると、ひとつになっていて、それは形として働きとしてあるかのように、霊というものを見ていくというかですね。それが見えるという人達を視霊者と呼んでいます。

だから、要するに、概念から働きを切り離して、根の国底の国に送るということが大祓の役割ですね。ですから、毎回毎回大祓をあげて、ほとんど自分が犯した罪でもないものを言うということは、大きくはそういう外側にある人類の記憶を、実際に働かないようにしないという決意であると同時に、記憶が感情と一緒に発動しいているんだったら、そういうものを止めるというスイッチを押しているというかね。そういうものを同時にやっているということがあると思います。

そんなことを昨日、脳のことを話していて、働きというものが様々であるということで、外側にも記憶というものがあるのではないかということが、だんだん証明されるのではないかなと思っています。唯脳論だけでは、もちろん解決はつかないと。これは東大の解剖学の養老孟司さんがある時期に、そういう考え方を広げたということがあって、そういうことを科学だと思うというかね。

科学というものは内側だけで終わるようにしないと整合性がないから言っているだけであって、外側にも内側が含まれているかもしれないということを、しっかりと見極めないといけないということがあると思います。

ありがとうございました。