0228話:2017年10月06日

◇第6種神拝作法は五行のご修行

昨日の繰り返しになりますが、第6種というのは五行の神のご修行ですね。だから、木火土金水のそれぞれが、自然の運行の象徴的なものでありますが、それを神として、木の神、それはまた別名があって、久久能智神とかね。土の神だったら、埴安姫神とかね。水の神だったら、弥都波能売神とか、金だったら、金山彦神、金山姫神とか、火の神だったら、火迦具土神、そういう五行と一体となるということを言っているんですね。だから、五行の働きに打つ拍手が、第6種鎮魂ということになっています。

それはきっと全てというか、目に見えるものというか、地球というか、地という観点からいくと、ほとんど木火土金水に入るということになりますね。そのようにだんだん意識が広がるので、空とか、空気もある面では息を頂くというか、風という神様が出てきたりとか、それから虛空津比賣神(そらつひめのかみ)というように、空というものに名前が付いたりして、だんだん広がっていきます。

筒というのは星ですよね。もちろん、太陽は天照大御神、月は月読命ということで、そういう自然の働きもあるんですね。それは天ということになるんですけれどもね。地と天というかね。ですから、人は地を拝する地の神様と天の神様というかね。

第6種の前の第7種で、あるいは、第8種、第9種というのは、そういう神様を地に迎えるというかね、降神と昇神ですけれども。地の神を迎える、そして、天の神を迎えるというようなことで学んでいくんですけれどもね。その上で、遠津御祖神、天津神、国津神という風に、だんだん広がっていくということですね。

それで第6種で地の働きに対して、地の働き、すなわち大地への鎮魂をするというかね。それの働きに自分が迎えてひとつになるというイメージですね。神を迎えるというかね。その最初の五行の神の、ひとつの神を迎えられると、だいたい次の神様ということになるんですね。それが水の神様ということで、水の神を祀るというのが白川の最初の祭祀なんですね。
全ての祭祀の基本になるということですね。

それで弥都波能売神を迎えて、ご修行するということになるんですね。そのご修行がだんだん次に、まぁ土ですね。ですから、お供えするのも、塩と水ですけれども。塩はある面では土ですね。人は地の塩にならなければいけないと、聖書にもありますが、そういう土と水とを合わせるということを先生がよく仰っていたのですけれども。

◇神様を迎える

昨日は、先生の御魂をお迎えして、一日を過ごさせて頂きましたが、結構、大変だなと感じました。今日はもうやめました(笑)。先生をもう天に送ってしまいました。やっぱり結構、高濱先生の優しくするというか、芯から優しくするということは難しいことなんだなと。自分はすぐにひっくり返りますから、平和と戦争がひっくり返るということを自分で思っていたのですけれども、なかなか先生みたいに一生優しくというか、怒ったことを見たことがないです。そういう優しさというのは、素晴らしい世界もありますけれども。この辺はまさに、神そのもののような生き方があるんですね。それを昨日は感じました。

神になっている方の、まさに高濱大神だと思うのですけれどもね。

そういう方と一緒に生きるということは決して悪いことではないですが、やっぱり迎えられる神も結構大変ではないのかなと。人間が勝手なことをやっていますからですね。だから、よく先生が言われていたのは、天皇陛下は四六時中、天照大御神を迎えてひとつになっていないといけないということで、その苦労は大変なんだよということをよく言われていたのですけれども。

我々は天皇ではないから、四六時中、神を迎えていなくてもいいんだと言われていました。先生を一日迎えてみて、やっぱり大変なことだと思いました(笑)。窮屈とかそういうことではなくて、生き方が大変だと思いました。

昔は、金光教という岡山にあって、今もありますけれども、川手文治郎という人が開いた教派があります。その方は、生き神金光大神、天地金の神、お陰は我が心にありという祈りの方法がありましたけれども。生き神というのは、人間とほとつになっているということを表明しているわけですね。だからこそ、祀られていくというか、大変なことだろうなということですね。

今の時代ですから、我々はそんなことをしなくても良い時代となっているのですけれども。やっぱり神様を迎えるということの原点が我々にあるのではないのかと。それは真面目さというか、そういうものの働き。真面目であることが極まれば、益々それが神の世界だということですね。その為に、真面目ということになる為の神様を迎えて、人間が真面目になるというかね。

人間というのは、ある面では、自由というか、自由からまた逃れるという自由もあるくらいですね。それは死もそうですね。死というのは、生から逃れるということで、死ということもありうるわけですけれども。神を超えて自由であるというところもあります。そういう人間がやるべきことは、あるというのはまた一方では真実なところになると思うんですね。それくらい人間というものは自在であるということが、ある面では、神の世界をまた超えたものがあるのかもしれません。

◇傲慢さ

人間が傲慢になるというのは、神をある面では超えているところもあるのかもしれませんね。神もゴーストというか、ゴーストバスターのゴーストもありますけれども、聖霊もですね。要するに、父と子と聖霊の御名によってアーメン、ですからね。聖霊という聖なる霊を、英語では単純にゴーストと言うのですけれども。そういう神のような存在というかね。そういうものさえも分けて、造化三神も分けますけれども、その働きがあるわけですね。父と子と聖霊というように分けているわけですね。我々がそういう3つの働きを同時に持っていくというかね。

言霊というものを使うということは、布斗麻邇としてもたらされたものだけれども、一方では、非常に傲慢というか、創り出す源の言葉を持ったというかね。ですから、バベルの塔はそれを崩したということは、コミュニケーションを出来なくしたということは、そういう傲慢さがひとつの天をも凌ぐような建物を建て始めたということが原因で滅ぼされるわけですけれども。きっと、我々がこれから活動の中で、慢心するということがあるかもしれないということは、言霊とか、布斗麻邇ということを使ってする技が、きっと神というか、創造という神を凌ぐような、それと同じようなことが可能になるという方法を言霊として持っているというかね。それは傲慢さに繋がっていくというかね。

言霊を研究した人たちの末路というのは、私は先生からお伺いしたり、たくさん見ているわけですけれども。隠されていた時には、そういう問題が起こらなかったのですけれども、今はいよいよ開く時で、その時に神をも恐れぬ慢心ということが必ず出てくるのではないのかなと。ですから、言霊だけを学ぶとそういうことになりかねません。我々がそういうものをコンピューターの中に閉じ込めて使うということは、ひとつの慢心するということの現れに繋がるかもしれません。

◇3つの観点から自己自身を見つめて、慢心しないような生き方をする

ですから、絶えず祓いというか、そういう神という存在を迎えるということがあると、それは分かるわけですね。外部からの神という存在を迎えるイメージで、それは自分の中から来るかもしれませんね。点のようなものだから、中から、外からということが言えないわけですね。

先生はよく仰っていましたが、神というのは、中から来るのか、外から来るのか、どちらでも言えるわけですね。中から出てくる、外から来るということは、次元という捉え方をすれば、どこからでも良いわけですね。二項対立の中では、考えるということではないからね。迎えるということ、また迎えた神に人間としての情緒の表明が出来るというコミュニケーションが、神と人の中にあるということですね。そういうことがあれば、慢心することもなく、いられるというかですね。自分が神と同じような権能を持つということが、ある面では、そこが慢心の極みになるということですね。ですから、ある面では両方からと言うのですけれども、ある面では外から内に迎える。

あるいは、目の前に迎えるという境地があると慢心することはないわけですね。白川のお祓いというものがそういう意味の役割であれば、外側に立てて神を迎えるという方法もしていくということで、そういう交流が出来るというかですね。

よく内在神という言い方もありますが、内在している存在そのものが自分であるから、そういう間違いにいきやすいというかね。自己自身が神になってしまって、自己の反省が出来ないということになると、大きな過ちを犯していくといことになるんですね。そういう意味での鎮魂もまた意味が出て来るわけですね。

言霊だけでもいけないし、鎮魂だけでも、祓いだけでもないんだよということで、ある面では、3つの観点から自己自身を見つめて、自分自身が慢心しないような生き方をするということが、いよいよ我々は幾何級数的と言うか、大変なところを目指そうという時は、そういうことを注意深くしていくと言うかですね。こういうことを今日、私が言うと言うことは、きっとそういうことが気付いて行うと良いというかですね・・・。それが天児屋命にお願いするわけですけれどもね。

そういう祝詞のような自己の宣言の言葉として、皆様方にお伝えするということであるわけですけれども。それが役に立てば良いのかなということで、外側の神からお聞きしたということで、捉えるということがあると良いかなということを今日は感じました。

今日も宜しくお願いいたします。ありがとうございました。