0238話:2017年10月18日

◇本当はみんな受けないといけないお作法確認講習

普段、作法を見直さなかったから、今月は作法を修正いたします。白川では、お作法確認講習をやっていますよね。これは本当はみんな受けないといけないですね(笑)。5種の拍手でも、みんな速すぎますね。自然とみんながなっているから、なってしまうんですね。それは誰かが意図したかは分かりませんが、注意もしないからいけないのですけれども。慌てなくても良くて、少しゆっくりやると良いです。

大祓の「伊豆の千別に道別て 天降し依し奉き」の後で礼をする時も、何も念ずるか分かっていますか?知らない人はいらっしゃいますか?

前段では、瓊々杵命(ににぎのみこと)が天照大御神から三種の神器と三大神勅を頂いて天降し依し奉きですから、国津神の住む場所に下ってくるということですね。天下りというかね。要するに、瓊々杵命が下ってこられたから、無事に国が続くということの感謝をするわけですね。前段では、下ってくる時の様子が、ありありと描かれているわけですね。天照大御神が瓊々杵命を遣わせてくださったことに感謝するということになりますね。天照大御神にも感謝するのですけれども、瓊々杵命が下ったことでそのことが可能になりました、だから、瓊々杵命の働きにも感謝するわけですね。それは同じことですね。天照大御神と瓊々杵命は同じ。

「ににぎ」というのは似ているということ、似々義。真理に似ていることを「ににぎ(似二義)」と・・・。ですから、天照大御神の身代わりというか、それが三種の神器であるわけです。それを祀りながらやるのですけれども、それには瓊々杵命に対する感謝も入っているわけですね。その両神を祈ると言ったらおかしいですけれども、ありがとうございます、ということですね。

あと、大祓の途中で鈴が鳴っているのですけれども、本来は、他の神道や宗教、新宗教運動なんかでは、その時に「天津祝詞の  太祝詞事を以て宣る  如此宣らば」の「如此宣らば」の前に鈴がなりますよね。「宣る」ということは、その前に本当は言葉があるわけですね。それは、4種、3種の世界にはなるのですけれども。それは大祓自体がご修行の出来た時点で伝授されることになっているので・・・。そのご修行の内容でもあるというかですね。

なかなかその辺はご修行の内容、これは単なる所作ではなくて、神示というものが関わった時に使う所なんですね。ですから、そこはいつもはスルーしているわけですね。4種、3種に到達した時には大事な部分であると。あそこの部分には何か入っているのではないかと、長い歴史の中で、何かを言っているのでは、とずっと言われていますけれども。ただ、それが決まった言葉としての一二三とか、とほかみえみためとか、そういう場合もありましょうけれども、そういうことでもないわけですね。「如此宣らば」ということは、宣るということと、それをまた宣ったものがどうなるのということは非常に内容がですね・・・。これは3種に関わるからですね。

それは民間祭祀と皇室祭祀の接点みたいなもので、国事行為というか、そういう高等神示が主にあるので、なかなか言いづらいこともあるのです。それを組織の為にも使うことは出来ますけれども、あまりそういう意味ではよろしくないというかね。元々は本来、自分の人生で1回か2回しか使わない神法になる場合が多いので、その部分は滅多に使わないわけですね。練習の為に、それをやってみるということはあるのですけれども。

このような秘伝が、白川には沢山あって、ほとんど秘伝というか、門外不出になっていたんです。もともと大祓をあげられるようになるということが、4種を頂くということなんですね。4種が出来るということは、国事行為というのか、そういうものに関わることになっていたんですね・・・。言ってみれば、高等神示に関わるということが大祓だということの役目、境地と言いますか、あるいは4種を受けるということと大祓が同一となっているんですね。そのところもまた一緒に学べるようにするということが、この時代のまた恩恵になっていると思うのですけれども。

◇諦めるというのが人間の行為、諦めないのが自然

もう1つは、病気になった時の自分の態度というのかね。人に苦しい苦しいと言うのも、非常に良いことだとは思います。それでストレスが発散しますからね。とにかく自分が逃げないということですね。逃げる方法は幾つかありますが、その方法を言ったらやってはいけないから、あまり意味がないこともありますけれども。そういう場面が来た時には、逃げないというかですね。そのことがやっぱり非常に大事な態度、スタンスというのかね。

病気と思うということも、1つの確定して、その意味の病気というものを作り出すということにもなるわけですね。病気という概念を作り出し、どうしようもないと自分自身が諦めるということに繋がるようなことでですね・・・。人と自然というか、動物との違いは、人間というのは、そこで諦めるということが人間の行為ではあるという風に、思い込ませてしまうかもしれませんが、自然というのは、そこは諦めないというのが自然ということなんですね。我々は自然を神として迎え、自然と1つになるということ、それも神として捉えているわけですけれども。自然と人工と違うのは、自然には諦めはない、ということですね。

ですから、人間が一番神に近い意志を持つということは諦めないということなんですね。それが人間の1つの態度というんですかね。自然と向かい合った態度というのかね。だから、人間という存在が、どの場面でも簡単に諦めるということを使ってしまうというかね。それは一方では、非常に人間だけの行為ではあるのですけれども、自然というものが神であり、自然というものの中に我々は存在している。本来はほとんど自然なんですね。ただ、人間だけが諦めるということを知っているんですね。それは自分が自分で決めて諦めるということをするわけですね。そこが一番傲慢ということに繋がるというところになるのではないのかと。人間が他者との比較、あるいは自分の能力というものを、みんな最高の部分をお持ちになっているわけですね。

◇「私は諦めないので」

一卵性双生児だったら、相当同じような人生を歩まれることが多いわけですけれども、それでも親から離れたり、結婚してどこか違うところに行ったりすると人生は変わっていきますよね。そういう風にほとんど同じということがない。みんな違ってくるわけですけれども。そういう意味では一人ひとりが固有の存在というかね。

時間というもので捉えると同じ2時間の範囲に入ったから、だいたい同じような人生を歩むかと言ったらそうでもないですね。それはその人の親との関係や、生まれた場所など、それが遠津御祖神、産霊幸倍神ということで、7種の中にヒントがあるわけですけれども。ですから、そういう面では、人間の尊厳ということにもなるのですけれども。人間がそれを考えたからそうなるのであって、それもまた思考する営みは大事なことなのですけれども、一方で自分というものを諦めるということを一種の悟りという世界と同一視して捉えることというのですかね。

ですから、そこの部分が悟りと諦観とか放念するというものと、くっつけて悟りとするのは、宗教者の誤りだと思います。最大の誤りは、悟りということを思考できて、その内容で解決できるという意味のおごり。それは取り付け、間違えているということですね。
そこには悟りはない。ですから、悟りというものを標榜してやってきた宗教は、ことごとく出来ないし間違ってしまう。それは諦めということが付いているということで間違ってしまう。今、テレビドラマで「私は失敗しないので」ということが流行っているそうですが、失敗というよりは「私は諦めないので」というのを流行らせたら良いのではないかと(笑)。

色々なことが自分の目の前に起こっているということは、そういう試練という言い方もありますが、それはどう考えるかというと、解決できない試練はないという気持ちで生きるということ。すなわち、諦めないでやるということが非常に大事なところかなと思いました。

ありがとうございました。