0239話:2017年10月19日

◇諦める前に、限界が来たと自分で判断する

天候が雨であったり、また台風が来るとか、色々と体には厳しいかもしれません。しかも、夏からの疲労も出てくる時ですから、大変だと思うのですけれども。昨日は、諦めるということは人間だけが考えることということをお話ししました。諦める前に、限界が来たと自分で判断するわけですね。限界が来たということを体、あるいは感情、精神という階層があって、それぞれの段階で、諦めるということになるのですけれども。限界を超えるということは、ある面では、感じ方によるというか、一人ひとり限界だと感じる限界点は違いますからね。これは体も感情も精神も、そういう限界を人それぞれ持っているということですね。

白隠という人は、精神の限界が見えないから、逆に体の限界を超えていたから、そこに降りてきましたよね。それで体が結核か何かだったと思うのですけれども、それを治すのにもう一度、体のところに戻ってきて治すということをしていますね。一方で、体の限界というのは、たぶん痛みとか、脳が感じているのか、感じていないのか分かりませんけれども、痛みの限界というようなものが一番、究極の感覚のところであるわけですね。だから、大概、痛みを拷問に使いますね。痛みに耐えられなくなって白状してしまうと・・・。

比較的、日本では腹を切るくらいですから、いさぎよいというか、痛みを超えていく人が結構いたと思うのですけれどもね。私がやっていたのは圧痛治療という痛みを加える治療法で、それで治すということを考えたのですけれども。世界は無痛文明と言って、痛みを嫌うので麻薬とか、麻酔を使うわけですけれども。痛みが逆に体を治すのではないかということが日本の伝統の中にあったので、研究してみました。それですから国連なんかでは痛みを消す為のプロジェクトがありました。その医者でうちの主任研究員でありました李博士に、東大で7年間、痛みの研究をして頂きました。うちの主任研究員でありました。その結果、痛みが治療するということが分かったのですけれども。そういう論文も作って頂きました。だから、普通は体が痛いと思う時の辛さというのは、普通は考えると限界が来て「もういいや」と諦めてしまいます。

◇痛みを自分で加えるという方法で限界を越えるということが起こる

末期がんの治療に僕も関わったことがあります。医者ではないから、色々は言えませんでしたけれども、5年くらい見てきたこともあります。非常に夜中でも電話が来たりして、大変だということが良くわかりました。しかも、麻薬でもある麻酔を打っても、すぐに効果が無くなったということもあったのですけれども。そういうものをある程度、乗り越える方法というのは、逆に痛みを自分で加えるという方法で限界を超えるということが起こるわけですね。情緒というか、それに感情がくっついてくると、更に色々と出てくるわけですね。もういいや、という感情が出てくるんですね。それで死ぬ元気もない時は、生きているのですけれども、ちょっとだけ元気になると、死ぬことを自分に課するというのかね。そういう感情というものが出てきて、死ぬことが出来るというかね。それが精神の病の中で起こりますけれども。そういう限界というのか、精神は体や感情が限界まで来ないと、へこたらないわけですけれども。その面では、体も感情も精神も、みんな同一のものと言ってもいいかもしれないですけれども。少なくとも、そういう限界を超えるというのか、そういう経験をしないとその先に行けないというかですね。諦めてしまうということになるんですね。

◇駄目だなと思った時に、初めて限界を越える資格が得られる

限界を超えるということは、諦めないで暫くじっとしていて、ということから起こるんですけれどもね。それは1つの言葉の綾みたいなものだから、あまり言いたくないのですけれども、みんなそれぞれの限界には違いがあって、その人その人で我慢する限界というのは違っていますけれども、限界を超えたな、というところを掴まないと、自分の人生を変えることは出来ません。来年、ライフチェンジと言うのを、500人規模でやろうということなのですけれども、たぶんライフチェンジということは、難しいということになるわけですけれども。その辺りはひとつの諦めないで、限界を超えるということを体感するということをそれぞれやっていくということがテーマとなるわけですね。

ですから、そういうことの段階で来年に向かって、昨日の話しではないですけれども、事業の中の計画、あるいは実際のそういうことを明らかにしながら、メソッドをやっているわけですけれども。そういう意味では、限界を超えるということもまた、自覚できるものとしてみるといいですね。もう駄目だなと思った時に、初めて限界を超える資格が得られるというかね。それでこそ、よく言えばチャンスというのか、人生が変わる時ではないのかと。その時に、そういう死ぬというところを選ばないで、生きて限界を超えていくということをするというか、そういうことが大事なのかなと。

鬱の後に死にたくなるという時も、鬱が元気になっていく途中に死ねる力も出るわけですけれども、そこでも死なないというかね。限界を超えると、必ず出来るということになるのではないのかなということを感じています。その時に、自他に関わらず殺し文句もあれば、生かす文句もあると。その時に何と思おうと、人から何を言われようと、自己自身でもって、殺す文句ではなくて、生かす文句を見つけるということになろうかと思いますけれども。その言葉が自分自身を活かすということになります。その時の自分から発する言葉を探すというかですね。それもひとつの言霊の修行みたいなものになるのかなと思います。

今日もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。