0240話:2017年10月20日

◇一人たりとも同じではない。それぞれみんな能力がある

我々一人ひとりはそれぞれ生まれた時間と場所が違うように、その時間の中で、時間の神と、その場所の産霊幸倍神とか、働きで生まれてきています。もちろん後、ご先祖様の働きを遠津御祖神ですね。お父さん、お母さんからずっと繋がる、ということで、白川第7種では、天津神・国津神・遠津御祖神・産霊幸倍神と挨拶するわけですけれども。皆さん、別々ということですよね。

それを仏教で言うと、「しゃべつ」と言います。差別の語源というかですね。それは仏様の前では、みんな違う存在として、仏の目から見れば、一人一人が仏の子供だという、尊い存在であるとしています。

今は自由・平等・博愛という建前の時代にきて、もう一度、仏教の考え方「しゃべつ」ということですね。みんな一人ひとり違うけれども、仏の目から見れば同じ独り子の存在というかね。神の独り子をキリスト教は遣わせて、その犠牲の上にというような捉え方もありますけれどもね。皆さん、能力もそれぞれ、取り換え用のない働きを持って、存在しているというかね。一人たりとも同じではないですね。

分類する時に同じように分類しているだけであって、そういうことを逆に見るということがお釈迦様の能力だったということも言われるわけですね。天眼通(てんげんつう)とか、天耳通(てんにつう)とか、六神通みたいなものがあって(その他に他心通(たしんつう)、宿命通、神足通、漏尽通がある)、そういうものから見ると一人ひとりの行為をある面では分かるのだけれども、どの一つの通力を身につけても、それが全通力だと間違うわけですね。だから、慢心というのは、自分が唯一全ての通力の働きがあり、全ての能力が有るように捉えるという捉え方が慢心ということですね。みんな確かに、いっぱい能力があるでしょうけれども。それぞれみんな能力があるのに、自分が一番優れているという感覚になるというのが、ある面では、1つのカルマというか、業というか、限界ということになるんですね。

昨日、限界を超えるということを言ったのですけれども、そういう意味での自己自身の能力の限界を超えるということは、他者の存在を認めるということにも繋がるわけですね。それが認められないと業に落ちるということになるんですね。我々は、一人ひとりが独自の存在であると同時に、一人で生き、一人で仕事をしているわけではないんですね。この祝殿にいっぱい人が、朝にお祓いをあげることをしているわけですから。その行為というのは要するに、共にやるということであると思うんですね。それは般若心経という仏教の1番の経典の1つですけれどもね。その中に最後に書いてあるように「ギャーテーギャーテー ハラギャーテー ハラソーギャーテー ボディソワカ」というようにですね。要するに、共に目指す悟りの世界に行きましょうね、ということがお経の一番の眼目になるわけですね。

◇日本は文明から見れば神道だが、客観視の学問については仏教で理解

仏教というものは、今、我々は神道を中心として学んでいますけれども、正月は後七日御修法という五大明王と両界曼陀羅を掲げて宮中真言院の方式で学ぼうということで、仏教を正月から御本尊を迎えて、お力をお借りするということをしているわけですけれども。これは日本の文化というものが、仏教を学問として、神道という生き方、自然との共生の仕方を客観視するという方法として、大切な役割があったんですね。それは神仏混淆というか、一緒になって日本を守ってきたわけですけれども。それが150年前に神仏分離ということで、神道というものを独立した形で現わす世界というものが、西洋列強に並び立つ為の方法として、西洋一神教的な方法を神道の中に取り入れて作ったものが、今の神社で、そういうものを作りあげたわけですね。だけれども、日本の信仰がどうかの問題ではなくて、文明から見れば日本文明は神道であるのだけれども、科学的なと言うか、客観視の学問というものは、やはり仏教でもって理解していたんですね。

その仏教を非常に大事なところで分けてしまったから、力が半減しているんですね。だから、神仏混淆したものというか、神道と仏教と対比して真理を解明しようとしたわけですね。そういう方法を全部捨ててしまった。もちろん、その方法の一つが修験道でもあったのですけれども。今回、村山古道を歩くということで、修験道の消えてしまったような、そういう村山修験というものを、月の終わりに富士山のところにある村山古道を歩くということもあるのですけれども。そういうことによって、もう一度、思い起こすということがあるのですけれども。仏教も神道もあるいは混じり合った修験道というものも、あるのですけれども。その強調すべき良いところもあるんです。そういうものの全体を今一度、見据えていかないといけません。日本の文明もそれぞれあるものを力を合わせて良いところと、問題点は解消しながらやらなければいけないというかですね。

我々は信仰という形での宗教はしないと言っていますが、宗教のもたらした教えというのか、学問の代わり、科学の代わりにやっていたものとか、重要ですね。あるいは、自己の鍛錬の方法とか、そういうものはこれからも役に立つものが沢山あります。それは今も使っているのですけれども、そういうものをですね・・・。純粋に白川だけということではないわけですね。ですから、修験も仏教も視野に入れて良いところを遣わせて頂くということになるのですけれども。

なかなか沢山のことを学ぶということが大変なのですけれども、要するに、日本というものが国として出来上がっているのは何も神道だけではないですね。日本会議ということで、国の政治もそっちの方でやっているということが非難の対象となっているのですが、我々は別にそういうことをするつもりは無いわけですね。ですから、神道だけの政治の動きをするわけではないということですね。日本全体がですね、飛鳥時代、聖徳太子の頃、既にそういう問題がテーマとなって、国という統一国家をやっていく時に、仏教と神道がどうあるべきかということを考えたんですね、色々な教えを一緒に学ぶということをやっているわけですね。

丁度、仏教の経典を上代語でもって学ぶ、あるいは和語、上代語でお経をあげるということをやっていたわけなので、色々なものが広がってその頃から、日本の国というものを共にやっていく時の様々な教えというものを学んでいかないと、当時はアジアですね、通用しなかったわけですから、それで中国の古典も仏教も、日本の古神道をベースとして、その上で学ぶということをやってきたが故に、日本というものがいざアジアというものの中で共栄を図ろうとした時に、一気に戦前は出来ると全開したということですね。確かにそういう能力もあったということですね。

今、我々はいよいよ世界的な意味の資本主義、あるいは、一神教と、また向かい合ってそういうものも今また強欲な資本主義にならないような形で、我々がそれを超えていくことを目指して、1つのセミナーをやろうとしていることがあるのですけれども。一筆書きで論理を辿ると偉そうなことを言ってしまっているのですけれども。我々が資本主義というものを乗り超えるという、悪く言えば野望ですけれども、そういうものを持ちながら、そういうセミナーもやっているわけですけれども。

◇「紺屋の白袴」にならない

我々自身がそれを乗り越えるということの、1つの事業の中で、そういうことをやっているのかどうかと言うと、案外、「紺屋の白袴」と言うのですけれどもね。紺屋さんというのは、藍で着物を染めるのが仕事なのですが、紺屋さんが白い袴を着ているというかね。神道だと、白い袴と白い白衣ですからね。その意味というのは、どのような神様の色にも染まりますという表明の白ですね。

神というのが八百万の神の、沢山の神を迎えるから、その働きの1つ1つに自分自身がその働きになって、その神色に染まるということが白衣でいることの理由です。要するに、紺屋の白袴というのは、自分達の仕事で使っているものを使っていないというということですね。紺で綺麗に見えたり、それを仕事にするわけですから、そういうものを着て商売するということが当然なのですけれども。

昨日、感じたことは、我々が我々の為にロゴストロンを本当に使いこなしているかというかね。皆さんの為にという意味での、公ということを強調するあまり、自分たちの為にほとんど使っていないのではないのかということを感じたんですね。だから、それでどうぞお使い下さいというのは、やはり公私というか、私というものから公に転換するということを言いながら、一方では、自分たちが私ということの、我々が全体を良くしていくということを共にやっていきながら、公の為にも尽くすということを同時共時にやるわけですからね。

我々が元気で豊かになっていっているということが、能力も含めて見えないと、心地良いというか、平安清明というか、Sさんが毎回の祝詞の中で強調してくださっているように、平安清明ですよね。平らけく、安らけく、清らけく、明らけくということで、その世界に入る為、誠の心をもってやりましょうと言っているわりには、その自分たちの平らけく、安らけく、清らけく、明らけくということをですね、清らけくというのは毎朝、一生懸命やりますけれども、その他のことを充分に自確的にやっていないということを感じました。自分たちの為にも、1つの言霊というか、そういうものを書きましょうということを話していたのですけれども。その実現があって、初めてみんなにも言えるのではないのかなということを非常に感じました。

昔の菩薩行というのは、自分のことを顧みずというところで、人の為に尽くすということで、この3000年の宗教のもっている本質みたいなものが良いことのように思えて、それを踏襲すると、これも大きなですね、3000年も修行してきた人に失礼かもしれませんけれども、ちょっと違うことになってくるというかね。その結果、自分たちの思いですね、人の為に尽くしたのに、どうして自分たちが上手くいかないんだという嘆きに変わりますので、その辺が非常に良いようで悪いというかね。

今は折角、ロゴストロンで自分たちがどう生きるかということをですね、最初のきっかけではやってきたけれども、公ということを言うあまり、それだけ言っていれば全てが可能になるということではないんですね。同時共時にそれを行わないといけません。自分たちがより良く生きるということと、社会が一緒に上手くいくということが可能になるということを同時にやらないと必ず弊害が出てくるですね。自分は一生懸命やっているのに、どうして上手くいかないんだということが必ず起こります。それは3000年の人類の歴史であり、悩みであり、我々が今、受け持っていると言ったら傲慢な意味もありますけれども、それを心意的にも、やって納得してなければいけないことなんですね。その時の、みんなで一緒にやっていく態度というのは、それはやはりここでもってあげているお祓いと、みんなでやっていく働きが、宗教的に見ると奇跡を生んでいくというかですね。

それはそういう六大通力ではありませんが、お釈迦様の時の一番の働きを前提としたものに備えるというかね。六大通力というものを備えた上での働きでないと、とても3000年の教えだけで世界が平和になれなかったように、同じことの繰り返しなんですね。ということは、みんながそういう六大通力を持って望まないといけないというところにきているわけですね。

それは物凄く傲慢な言い方になるのですけれども、少なくともそういうものを考えることが出来る、あるいは確認することが出来るような、そういう我々の認識というか、意識というものが生まれてきたということが、この時代を表しているのではないのかと感じるんですね。ですから、そういう公を目指す人たちが、六大通力を備えていくということが、1つのロゴストロンという能力開発の装置というものや、そのソフトに対して、はっきりと記載できるというか、そういう器を持ってしまったということですね。ですから、これで開発していくと実現できるんだということですね。

そういう意味のライフチェンジという言い方を来年のテーマとしてやっていますけれども、それはカルマを超えていくということが出来るんだということが、お釈迦様の言った時の仏教の教えにあるわけですね。口はばったい言い方になりますが、それを超えていくということが出来ない限り、ヨーロッパが提案した資本主義というもの、ポスト・モダン、トランス・モダンとしてを乗り越えたところで、経済活動や政治活動、芸術活動を含めて、それを乗り越えていかないと話にならないということですね。その為に、皆さんのそれぞれの能力をフルに使って、共に行かないと、それは出来ない相談であると。ですから、皆さん一人ひとりがある面では提案者であるわけですね。

それぞれの一番すぐれた部分、しゃべつというか、しゃべつされた優れた部分を共に、エンジニアリングと言いますが、そういうものを綺麗にコンカレントにエンジニアリングしていくということが、今、我々が集まっている行為がそういう問題をテーマにして超えていこうということになるんですね。その辺りを自覚できると、ひとつの我々の今の果たしている白川と鎮魂と言霊と言っていますけれども、日本文明を支えた叡智が活きてくるというかね。今も充分に活用させて頂き、そして、乗り越えていくということが可能なのではないのかということを思いました。

明日は第7種神拝作法伝授は70名いらっしゃいます。どんどん、関心をもって下さる方々が増えていくにあたって、我々が視野を広くして、皆様方に納得できるものを提供していくわけですから、皆様方のそういう意味のお力をお借りしてやっていこうと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

ありがとうございました。